セクサロイドは眠らない

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2003年01月20日(月) 何度泣かせても、慣れる事はないだろう。女が泣くのを見るといつも落ち着かない気分になる。

「で?私はどうしたらいいんですか?」
目の前の妻は、感情の乏しい瞳でこちらをじっと見ている。

私は、小さく溜め息をついて、
「別れて欲しいんだ。」
と、答えた。

退職金の半分をお前にやるから。身勝手なのは分かってる。だが、これから残りの人生、俺の正念場だ。俺は、思うようにやりたいんだよ。分かってくれ。

どんな言葉を吐いても、嘘臭い。目の前の妻が無反応である程に、無表情である程に、こちらの身振りは大きく、声は大きくなってしまう。下手な詐欺師のように落ち着きがない。

「結論はすぐにとは言わないよ。しばらく考えてから、お前の身の振り方を決めたらいい。それまで待つよ。」

妻は黙ったまま、キッチンのテーブルの椅子から体を動かさない。

それを見て、少し胸が痛んだ。だが、しょうがない。何年もの間、私にぶら下がったまま、じっとしていただけの女。私は、今、飛ぼうとしている。そのためには、この女は少々重い。私は自由になりたいんだ。分かっておくれ。

「じゃあ、行ってくるよ。」

返事はない。

私は、今日で長年勤めて来た会社を退職する。

--

机の中のものを紙袋に詰めている最中も、誰も声を掛けて来ない。一緒に笑ったりした日もあったのに、冷たいものだな。だが、逆の立場に立てば、私だって同じ態度を取るだろう。私は、組織の存続のために切り捨てられていく存在だ。

唯一、時折こちらに向けられる視線を感じるが、その相手は分かっている。卑屈な目をした課長だ。何度叱ったろうか。そうして、そのたびに、小さな憎悪が彼の中に蓄積されていき、ついには、彼は、私を憎む事を仕事の原動力にするようになった。だが、今となっては、そんなこともちっぽけな事だ。私は、今日、この場から消えていなくなる。それは、「死」と同じようなものだ。私は、今日でいなくなる。そうしたら、お前は今度は何を原動力に生きて行くのだ?訊いてみたかった。

本当に憎むべきは、組織のために個人を殺していくこの会社の機構だという事に、だが多くの人間は気付かない。

「じゃあ、後は頼んだよ。」
私は、私の席に座る事になる部長に、静かに、そう言う。

「まかせてください。」
彼は、どこかしら申し訳なさそうに、深々と頭を下げる。

--

怒りがゼロになったとは言えない。だが、こんな感情にいつまでも囚われている暇はない。残りの人生を、いかに豊かに過ごすか。それを模索することが私の当面の課題だ。

女は、いつものように、満面の笑みで私を出迎えた。

「早いのね。」
女は、まだ事情を知らない。

「ああ。今日は、ゆっくり話がしたくてね。」
「嬉しいわ。」

女は、いそいそとキッチンのカウンターの向こうに回り、グラスの用意を始める。

「ああ。いいんだ。今日は飲まない。」
「あら。めずらしい。」
「それより、話がしたい。お前と。」
「いいですけど・・・?」

女は、少し不安な色を瞳に浮かべて、こちらを見ながらソファの向かいに座る。

「今日、仕事を辞めた。」
「辞めたって?」
「辞めたんだよ。自分でね。辞表を書いて。」
「で?どうなさるつもり?」
「当分は準備期間だ。」
「え?当てはないの?」
「ああ。だが、退職金がある。これで、いつかお前と話していたように、小さな店でも持って・・・。」
「ちょっと待って。あれは、もう、叶わない夢と思ってとっくにあきらめたのよ。」
「そうか。それなら、俺一人でもいい。店をやろうと思う。流通業なら、あらゆることを経験した。それをどう生かせるかは、まだ分からないがな。」
「あなたならできるわ。」
「そうだろうか。」
「ええ。」

今日は、本当はそんな事を言いに来たのではない。

「なあ。」
「なあに?」
「俺達、ずいぶん長いよな。」
「ええ。そうね。」

女が、子供が欲しいと半狂乱になった時もあった。逆に、女を繋ぎとめようとこちらが愚かな振る舞いをしたこともある。だが、ここまで続いて来た。これも縁だ。今までは、少々女を粗雑に取り扱ってばかりだった。だが、そろそろ、女を喜ばせてやりたくなった。

「結婚しよう。」

女は、グラスを持った手を止めた。

返事がなかった。

「長い間、すまなかった。」
女が怒っているのかと思い、私は慌てて言った。

「ここまで来て、ようやく踏ん切りがついたんだ。何もかもやり直したくなった。」
「・・・。」
「今すぐとは言わない。きみだって、ここまで我慢してくれたんだ。今更、俺の都合に合わせろとは言わないよ。」

目を上げると、女は、泣いていた。

「どうした?」
だが、女は、ただ泣くばかりで何も答えなかった。私は戸惑い、そうして、彼女を抱き締めようとした。だが、女は私の手を払いのけ、ただ、顔を覆うばかりだった。

「少し時間をくださる?」
ようやく泣き止んだ女は、小さく言った。

私はうなずいた。

何度泣かせても、慣れる事はないだろう。女が泣くのを見るといつも落ち着かない気分になる。

「ごめんなさいね。」
かすれた声で、女がつぶやく。

まあいいさ。今までは待ってくれていたんだ。今日からは、私が待とう。

ソファを立ち玄関に向かおうとした、その時、電話が鳴った。

女は、慌てて受話器に飛びついた。

私は、そのまま玄関を出ようとして、彼女の会話を何気なく耳にしてしまう。

「もう少し待ってちょうだい。そうね。三十分。」
「・・・。」
「ええ。そうよ。馬鹿ね。そんなんじゃないって。」

私は全てを察して、寒空の下、暗闇に向かう。

そうか。なんだ、そうだったのか。思い切り、自分の愚かを笑い飛ばしたくてしょうがなかった。女は、既に、飛び移る先を決めていた。私は、もはや、女にとっては過ぎようとしている過去だったのだ。

--

「ただいま。」

キッチンには、相変わらず、妻が、朝と同じように座っている。

「なんだ。まだ、起きてたのか。」
私は、コートを脱ぎながら声を掛ける。

いつもなら、私の帰りなど待たずに寝入っているところだ。

「あなた、お話があるの。」

私は、ああ、と言い、妻の向かいに座る。

「今朝の事だけど・・・。」
「なんだ?」
「あのね。お金は要りません。」
「どうしてだ?」
「当面食べていくぐらいは、私にもあるの。」

そうして、開いた通帳を差し出す。

私は、それを手に取って、眺める。

それは、こつことつ長い時間掛けて少しずつ加算された数字が並んでいた。

「パートで貯めたお金。あなたは、そんなはした金でよく働くなって、笑ってたけどね。」

その額は、それでも、それを貯めた歳月を想像すれば、気が遠くなるような額だった。

「なんだ。知らなかったな。」
「ええ。私ね。どっちにしても、あなたにこれを見せようと思ってたの。あなたの退職を待ってね。あなたを驚かせたかったの。」
「そうか。」
「あなた、ずっと、自分の店を持つのが夢だって言ってたから。」
「そうだったかな。」
「そうよ。いつも、いつも、言ってたでしょう?だから、あなたが会社を辞めたら、一緒にお店をやろうって、ずっとそう決めて、貯めてたのよ。」
「・・・。」
「だから、いいんです。あなたがいなくなっちゃったら、このお金、もう、私、使い道がないから。」
「馬鹿だなあ。お前ときたら。」

そこまで言って、もう、言葉が続かない。

目の前にいる、女は沈みそうな船にそのまましがみついて一緒に沈んで行こうとするような。そんな愚鈍な女で。

「今まで、お仕事お疲れさま。毎日、あなたを仕事に送り出すのが幸せだったの。」
目の前の女が、その言葉を言うためだけに何年もの間愚かにもここに座り続けていただけだったとしても、私は、たった今、その言葉が欲しくて仕方がなかった、と、気付かされる。


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