セクサロイドは眠らない

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2003年01月18日(土) 父の無垢な、子供のような部分を守ってあげられるのは私だけだと信じていた。

幼い頃は、確かに泣いて困らせた事もあった。やさしい父を。不器用な父は、そんな私をうまくあやす事もできず、ただ、困った顔で、大きな体をすくめるようにして、そこにいた。私が泣きやんで眠るまで、そこにいてくれた。そうやって、私は育った。父と二人で肩を寄せ合って暮らした。父は私を支え、私は父を支えた。そういう意味では、私達二人共が、母の子供のような存在だった。母を失った兄弟が抱き締め合う事で母の抱擁を思い出すように、私達も、互いに母を思い出させる事で結び付きを深めた。

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母がいなくなったのは、私がまだ幼い頃だった。物心ついた時には、もう、母はいず、私は父一人の手で育てられた。

「ねえ。母さんは私達の事が嫌いになったのから、家を出て行ったの?」
「まさか。母さんは、父さんの事もお前の事も、これ以上ないぐらい愛してくれたさ。」
「じゃあ、どうしていなくなったの?」
「母さんは、愛をたくさん持ち過ぎてたんだ。父さんとお前だけを愛するというわけにはいかなかったんだな。」
「どういうこと?」

中学生の頃は、よく、いなくなった母への怒りを父にぶつけて、父を困らせた。口下手な父は、そうなるといつも困った顔で、悲しそうに私を見つめるだけだ。思えば、それが私の反抗期だった。どこか、母を引き止めておけなかった父のふがいなさを責めたかったのだと思う。

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高校生になり、初めての恋を経験し人を愛する事の痛みや苦しみを理解するようになってから、私も、母の気持ちが何となく分かるようになっていた。

「母さんは、木や草や花を神とする宗教を信仰していたんだ。」
「ふうん。素敵ね。」
「ああ。素晴らしいさ。大きな人だった。道端の花を愛で、鳥のさえずりに耳を傾け、自然に感謝していた。」
「父さんは、母さんが大好きだったのね?」
「ああ。大好きだった。だが、父さんには、母さんの信仰がうまく理解できなくてね。結婚して一年目の結婚記念日に、母さんを喜ばせようと、家の中を、切り花でいっぱいにしたことがあった。その日は、母さんが実家に寄ってから戻る事になっていたからね。父さんは仕事を休んで、一日その計画の実行で頭がいっぱいだった。母さんを喜ばせる事だけが、あの頃の父さんの喜びだったんだよ。」
「で?母さんは喜んだんでしょう?」
「いいや・・・。」

父は、とても悲しそうに、そこで黙り込んだ。

私は、背後から父の分厚い肩を抱き締める。
「ああ。父さん。」
「すまない。父さんはね。ちっとも母さんを分かってやれなかた。家に入ってきた母さんは、泣き出してね。それはもう、ちょっとやそっとじゃ泣き止まないぐらいだった。なんでこんな事をしたの?ってね。父さんを責めながら。花に向かって、ごめんなさい、ごめんなさい、ってね。花は生きてるのに、なぜ殺したのかって。」
「だって、父さんは母さんを喜ばせようとしてやったんでしょう?」
「ああ。だが、理解すべきだった。母さんを愛しているなら、分かってやるべきだった。だが、結局、頭が悪い父さんは、母さんを完全に理解してやることはできなかったんだ。父さんは、へまばかりした。」
「母さんだって、父さんの気持ちは分かってた筈よ。」
「ああ。そうだ。母さんは、分かってくれていた。だが、自分の信仰と父さんへの愛情で、押し潰されそうに悩んで、ね。それで結局、父さんは、ある日思ったのさ。母さんを楽にしてやろうってね。もう、いいって言ったのさ。母さんに。信仰と家族の間で悩む母さんを見ていたくなかった。」
「父さんは、それで良かったの?」
「ああ。そうしかできなかった。」
「悲しい話ね。」

私は、首を振る。

それから、母の写真を父に見せてもらった。写真の母は、美しい人で。花柄のドレスを着て笑っていた。
「素敵ね。」
「ああ。素敵だろう?母さんは、この世で一番の美人だったよ。」
「ドレスが綺麗。」
「このドレスを着ていた日の事を今でも思い出す。」

父は、一瞬、幸福そうに目を閉じた。思い出しているのだろう。

「父さん。私、一生、お嫁に行かない。父さんのそばにいる。」
「馬鹿言うんじゃないよ。」

父は、だが、嬉しそうに微笑んだ。

私は、おやすみ、と言って、父の手に写真を戻し、部屋に戻った。

反抗期を過ぎた私は、父を深く愛するようになっていた。父の無垢な、子供のような部分を守ってあげられるのは私だけだと信じていた。

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それから歳月が過ぎ、私は、すっかり成長して、母譲りの栗色の髪を長く伸ばした娘になった。

その日、私は、勇気を出して父の部屋をノックする。

「どうした?」
白髪の父は、目をしょぼつかせて私を迎え入れる。

「父さん、話があるの。」
「何だね。」
「私、結婚したい人がいるの。隣の町の人なんだけれど。」
「そうか・・・。」

父は、かすかに唇を奮わせ、目をしばたかせた。
「この日がいつか来るとは思っていたのだがな。」
「あのね。その人は、父さんと一緒に暮らしてもいいって言ってるの。だから、父さんを一人にするってわけじゃないのよ。」
「そうか。だが、お前は、父さんより、その男を愛しているわけだ。」
「馬鹿ねえ。父さん。私、父さんと彼を比較した事なんてないわ。どっちのほうが、よりたくさん好きだなんて、考えた事もない。」
「そうか。」
「当たり前よ。私、父さんのいない生活なんて考えられないわ。」
「・・・。」

父は、ずいぶんと長い事黙っていた。

私は、父が泣き出すんじゃないかと。そんな事を思っていた。

ようやく、父は口を開く。
「母さんのドレス。写真の、な。」
「ええ。覚えてるわ。」
「あれを着てみせてくれるか?」
「いいけど。あのドレス、うちにあるの?」
「ああ。」

それから、父さんはクローゼットを開き、タキシードを取り出す。
「これを着てな。母さんと踊ったものだった。」
「いいわ。父さん。私と踊りましょう。」

父さんは、クローゼットの奥の、鍵付きの木箱を開ける。

私は、息を飲み、父さんの手元を見つめる。

「思い出は、全て封印していた。」
父さんは、そう言って、軽く柔らかい素材でできた、畳まれた布地をそっと私に手渡す。

「着てくれるのか。」
「ええ。」

私は、父が取り乱したりせずに落ち着いている事に安心した。

私は、そっと、その薄布を広げる。

それは、羽のように軽い素材で。

だが、そのドレスの胸元に茶色に広がったしみは、そのドレスの美しさを損ねていた。

「これは、なに?」
私は、しみを指さす。

「なあ。美しいだろう?」
父は、ゆっくりと微笑む。

「ねえ。父さん。これ、何よ?」
「母さんはな。父さんを選ぶべきだった。だが、選びきれなかったんだな。だから、解放してやろうと思ったんだよ。」
「ねえ。父さん。父さんったら。いったい、どういう・・・?」
「ほら。あの丘を見てごらん。花がものすごく綺麗に咲いてるだろう?」

あそこに何があると言うの?

「母さんは、あそこで毎年、花を綺麗に咲かせてるんだよ。なあ。本当に愛していたら、自由にしてやるのが一番だ。そうだろう?」
父は、そうやって、なおも微笑む。

「着ておくれ。ドレスを。そうして、最後にダンスを踊ろう。あの夜と同じように。」


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