セクサロイドは眠らない

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2003年01月09日(木) ああ。馬鹿みたい。それだけでいいって思ってたくせに、もっともっとたくさんのものをこの場所に求めていた。

「カフェ ペンギン」。

そこは、大型書店の一角にあるカフェだった。図書館司書の私は、水曜の休みにはそのカフェで、買ったばかりの新刊書の香りを楽しみながら、もどかしい気持ちで頁をめくる。

「カフェ ペンギン」では、ずいぶん早い時期から小柄でペンギンのようにチョコチョコと歩くマスター以外は、いわゆる、可愛らしい青年達を取り揃えていた。中高年の女性が多い平日の午後、息子のような年頃の青年達が働くようになってから、カフェはいつもにぎわっていた。

私は、「カフェ ペンギン」がそんな場所になる前からその場所を利用していた者として、いささか不快に思うことがないでもなかったが、ともかく、私の目的は真新しい本を読む事。いったん本を開いてしまえば、周りの様子など気にならなくなる。砂糖とクリームをどっさりと入れたコーヒーがすっかり冷えてまずくなるまで、私は本を読みふけった。

マスターも、同じような心持ちだったのではないか。ただ、ひたすら、絶品の笑顔を持つ若者達が運んでくるオーダーに応じて、黙々とコーヒーを作り続けるのみだった。

私は、そのマスターを愛していた。その。男性という意味ではなく。人物として。

--

それは、木曜日に起こった。

それまで、私の休みは水曜日だったのだが、年が明けてからは木曜日に変更になったのだ。私は、何気なく、いつものように新刊書を買い、「カフェ ペンギン」に入ろうとした。だが、いつもと違う様子に、思わず足を止める。どこが違うって。それは、店内に客がいない事。いつものように、本など読むことがあるのだろうか、おしゃべりに興ずる女達が一人もいない。

今日は休みだったかな。

私は、中をそうっと覗く。と、一人の給仕がにっこり笑って、どうぞ、というように首をかしげる。

私は、思い切って中に入った。

カフェのマスターは相変わらず。客なんていないのに、忙しそうだ。

「今日は?」
「今日は、店は定休日なんです。」
青年は、笑顔で答えた。

男性とこんな風にしゃべることなんて滅多にないのに、こんなにもリラックスできるのは、多分、彼の寝癖のせい。気付いてるのかしら。

「お店が休みなのに、私、いいの?」
「ええ。今日は、あなたのためだけに。」
「冗談でしょう?」
「いいえ。本が本当に好きな、あなたのためだけ。」
「まあ、いいわ。」
「メニューを。」

普段は、メニューを見もせずに、ホットとぶっきらぼうに告げる私が、今日は彼とちょっとでも話がしたくて、メニューをにらむふりをする。

「本日のコーヒーって?」
「日によって、店長が決めるんです。」
「今日のは?」
「ガテマラです。」
「ああ。ごめんなさい。私、コーヒーの銘柄とか詳しくなくて。おいしいのかしら?」
「試してみます?」
「ええ。」

その彼は、笑顔を残して立ち去る。

私は、早速いつものように買った本を開くが、ろくに活字が読めない。こんな事、初めてだ。

ほどなく、コーヒーが運ばれてくる。

「これが、ガテマラ?」
「ええ。香りを楽しんで欲しいから、どう?砂糖もミルクも入れずに飲んでみて。マーブルチーズケーキは、僕のおごり。コーヒーの喉越しがすっきりしてるから、合うと思うよ。」
「ありがとう。」

なぜか、私の手は震えている。そっと口につけたコーヒーは、思ったほど苦味がなく、私は、おいしいわよ、という笑顔を返す。

「ごゆっくり。」
彼も、安心したように微笑んで、くるりと背を向ける。

ああ。待って。もうちょっと話しをしていたい。今日の私、どうかしている。

--

それからは、私は、毎週、木曜日。誰もいないカフェで、同じ彼と短い会話と、さまざまなコーヒーを楽しむ。それだけで幸福だった。変なの。いつも、気後れして、図書館に来る男性ともほとんど会話できない私が。

マスターは、相変わらず忙しそう。私は、新刊の本と、熱いコーヒーと、とびきりの笑顔。ずっとそんな生活が続くと思っていた。

--

ある日の事。

私は、その立て札を見て、心臓が止まりそうになる。

「カフェ ペンギンは、昨日を持ちまして営業を終了致しました。長年のご愛顧ありがとうございました。」

そこは、改装され、どうやら、まったく別の店が入るらしい。私は、不意に涙が溢れて止まらなくなる。ああ。馬鹿みたい。それだけでいいって思ってたくせに、もっともっとたくさんのものをこの場所に求めていた。

「どうしました?」
背後から、声。

振り向くと、そこにはペンギンが。

「ああ。ごめんなさい。あんまりびっくりしたものだから。」
「私も、残念だ。」
「どうして?素敵なお店だったのに。」
「従業員の一人が、客とトラブルを起こしてね。どうやら、金が絡んでるみたいなんで。しかも、そのご婦人、この書店のオーナーの知り合いと来た。」
「それで、急に?」
「ああ。仕方がない。若くて可愛い男の子を揃えてちょうだいって言ってたのも、ここのオーナーだしね。」
「素敵なお店だった。あなたのコーヒー、最高だったわ。」
「きみはいつも、本に夢中だった。」
「ええ。ごめんなさい。」
「いいさ。最初は、そんな客にコーヒーを飲ませたくて、この店を始めたんだしね。」
「これからどうするの?」
「さて。どうしようかな。どうだい?最後に、コーヒー、飲んでかないか?」
「いいの?」
「ああ。いいさ。」
「じゃあ、お願いするわ。」
「お目当ての彼は、もういないけどさ。」
「いいのよ。」

私は、頬を赤らめる。

「おや。読むものを持ってないね。」
「ええ。今日は、とてもそんな気分じゃないわ。」
「じゃあ、私が書いた本を読んでくれるかな?」
「いいけど。マスターが本を?」
「ああ。」

ペンギンがトランクの中から出した、その本は、クールなブルーの表紙。頁をめくると、そこには、恋に不器用な女の子の物語が書かれていた。私は、驚いて、ただ、引き込まれて、ブルーのインクで書かれたその本を。

--

さて。ペンギン・カフェは、もう終わり。その青年は、薄っぺらな封筒を受け取り、私の顔を見る。本が大好きで、本を買うためにバイトしたいとやって来た。

「せめて、最後に彼女に伝えたかったのに。」
「仕方ないさ。急に決まった事だ。」
「なんとか、メッセージを伝えられないかな。」
「それは。まあ、私の知ったこっちゃない。ここで待ってれば、会えるんじゃないかな?」
「そうだね。マスター、今までありがとう。」

その若者は、寂しそうな顔で、最後のバイト料をジーンズの尻ポケットに突っ込むと、立ち去ろうとした。

「待ってくれないかな。今まで、お客様アンケートに答えてくれた人にハガキを出すのを手伝ってくれるかな。」
「ええ。いいですよ。」
「じゃあ、お前はこれを頼むよ。本が大好きな、内気な図書館司書の女の子に。」

若者は、顔を輝かせ、頭を下げて走り去る。

私もあんなだった。本が好きな女の子と、恋を。そうして、このカフェを。


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私は本を閉じ、マスターを見る。マスターは相変わらず無愛想で。コーヒーは、いつもより、ほんのちょぴり苦かった。私は、最後のコーヒーを飲むと、席を立つ。

「ありがとう。」

--

次の日、私は、いつものように図書館で、ちょっぴりつまらなさそうな顔で座っている。

「あのう。ペンギンに関する本を探しているんですが。」
「本の検索でしたら、そちらのパソコンを・・・。」

言いかけて、私は、息を飲む。

その寝癖は、確かに見覚えがあって。私は、おかしくて笑い出す。彼もつられて笑い出す。静かな図書館では、ひんしゅくものも笑い声。


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