セクサロイドは眠らない
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2003年01月07日(火) |
それしか、愛の形を知らなかった。若い男に抱かれただけで舞い上がり、やさしい夫を捨て、 |
その時の彼の表情を、私は、今でも鈍い痛みと共に思い出す。
「家を出て来たの。」 私は、少女のように誇らしげな表情で彼に告げた。
「何だって?」 彼は、意味が分からないというように、ポカンと口を開けてこちらを見た。
「だから。家を出て来たの。もう、私達、ずっと一緒にいられるのよ。」 「馬鹿な。なんて馬鹿なことをしたの?暖かい家庭を捨てて、こんな、何も持たない僕のところに来たって言うの?」 「ええ。そうよ。それは、あなたも望んでいたことかと・・・。」 「いや。きみは、何か根本的に考え違いをしているよ。」
私は、その瞬間、頭の中がぐるぐると回り、何がなんだか分からなくなった。どちらが上で、どちらが下で、右はどちらで、左はどちらか。何もかもが分からなくなり、そこに座り込んでしまったのだ。
私は、本当に、愚かだった。それしか、愛の形を知らなかった。若い男に抱かれただけで舞い上がり、やさしい夫を捨て、新しい結婚生活を夢見た。
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「別れてください。」 数週間前、私は、やさしい夫に何と理由を言えばいいのか分からず、泣きじゃくりながら、そう告げたのだった。
「はは。何を言ってる?」 夫は、ただ、とまどっていた。
「お願い。別れて。」 「だから、どうして?」 「それは言えません。」
押し問答が続いた。それから仕方なく私は夫に、 「好きな人がいるの。」 と、打ち明けた。
「好きな?それが原因なのか?」 「ええ。」 「言ってみろ。どんな男だ。」 「まだ、学生なの。」 「驚いたな。そんな男にきみを養えると言うのか?」 「養ってもらおうなんて思わない。ただ、一緒にいたいの。」 「どうやって食べる?」 「働くわ。」 「きみが?急に働くことなんて無理だ。」 「そんな風に言わないで。これでも、あなたに会う前は、ちゃんと働いていたもの。」 「親に口をきいてもらった勤め口で、OLの真似事をしていただけだろう?」 「ひどい事、言うのね。」 「僕は、ただ、現実を言ってるんだよ。恋は、勝手だ。僕には阻止できない。だが、食べて行かれなくちゃ、恋も夢も、無力だ。」 「やってみせるわ。あの人とだったら、なんだってできそうなの。私、新しい恋に出会ってしまって、そうしてもう、戻れないの。」
その時、夫がいきなりこぶしを振り上げるから、私は、きゃっと叫んで、その場にしゃがんで頭を抱え込んだ。
それから、五分?十分?何も起こらないから、そうっと顔を上げて夫を見た。そこには、ただ、握ったこぶしを震わせて泣いている男がいた。
あなた、ごめんなさい。私は、最低限の物を詰めたスーツケースを抱えて、急いでタクシーに飛び乗った。
心がドキドキしていた。泣いている夫を見たのは初めてだった。
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何とか頼んで、安アパートの部屋に入れてもらった。
「つまり、家に戻れと?」 「ああ。そうしたがいい。僕は、きみに何もしてあげられない。」 「何もしてくれなくていいのよ。ただ、一緒にいて。何かをしてくれなんて望まない。一緒に作って行きましょうよ。生活を。」 「違うんだ。違うんだよ。僕は、きみが他の男に養われて幸福そうだったから、興味を持った。きみは、その幸福を捨てるべきじゃなかった。」
彼に手渡されたマグカップを受け取ると、私は、混乱した頭で何を言えばいいのか分からなかった。
「私をもてあそんだの?」 「そうじゃない。」 「なら、どうして?」 「僕は、誰とも結婚したくない。何の責任も負いたくない。」 「なら、私はどうしたら良かったの?」 「そのまま、動くべきじゃなかった。安定した企業に勤める旦那さんと一緒にいるべきだった。」 「私、そういうの嫌だったの。夫に食べさせてもらいながら、夫を裏切るなんて、どうしてもできなかった。そんなの、厚かまし過ぎるもの。」 「だが、きみに何ができる?僕は、何とか仕送りとバイトで食べているだけだ。きみみたいな女がいきなり仕事を探したところで、何ができるというんだ?」 「夫と一緒の事を言うのね。」
私は、最後のプライドを振り絞り、その安アパートを出る。
ビジネスホテルの一室で、私は、声を張り上げて泣いた。私は、今日、幸福な恋人同士になることを夢見て家を出た。
手持ちのお金が尽きる前に仕事を探さなくては。私は、翌日からハローワークを訪ね、あちらこちらへ面接に行った。だが、十年も専業主婦をしていた女には、なかなか仕事は見つけられない。
そうやって、一週間が過ぎ、二週間が過ぎ。
私は、自分を拒んだ恋人を恨みに恨んだ。友達に電話をし、怒りをぶちまけたりもした。だが、嵐が過ぎ去ってみれば、もっとも傷ついたのは、自分ではなく、夫ではないかと気付く。
せめて、謝ろう。許してくれなくても。私は、何度も何度も手を止めながら、ようやく、夫の携帯電話に電話する。
「もしもし?」 「きみか。」 「ええ。」 「今、どうしてる?」 「今?今は、一人よ。」 「恋人とやらは?」 「うん。あれはね。私の勝手な独り相撲だったの。おかしくなってたのよ。私。馬鹿みたいね。」 途端に涙が溢れ出す。
夫は、私が落ち着くまで、そこでずっと待っていてくれた。
「ああ。ごめんなさい。」 「傷ついたんだね。」 「ええ。まあ。でも、誰かを恨むのは間違いだって分かったの。」 「今、どこ?迎えに行くよ。」 「いいの。私、あなたに合わせる顔がないから。」 「いいから。行かせて欲しい。」
私は、ホテルの名前を告げる。
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二時間後、夫は、片手に私のスーツケースを。もう片手で、私の右手をそっと握った。
「今夜は、うちに泊まってくれるんだろう?」 「ゲストルームは、お掃除してないわ。」 「じゃあ、うちで一番いい部屋に泊まってくれ。」 「一番?」 「ああ。僕と、きみの部屋。」 「いいの?」 「ああ。」 「他の誰かを探しても良かったのよ。」 「きみがいいんだ。」 「許してくれるの?」 「許すからじゃなくて、きみが好きだから戻って来て欲しい。」
私達は、無言で歩く。
日が暮れかけた町は、小雪がチラつき始める。二人の息が白い。
「寒くなったわね。あなた、寒いの、大の苦手なのに。」 「寒いのも、たまにはいいさ。誰かといると暖かいって事が、はっきり見えて、さ。きみの息が白く見えるのさえ、なんだか、あったかい。」
私達は、恋人同士のように、言葉を選びながら。いかに、相手を素敵かと伝えようとしていた。
「ねえ。私、十年前と、男性の趣味が一緒みたい。」 「そうなの?」 「ええ。」 「なら、良かった。」 「今、気付いた。」 「そうか。」
彼は、照れくさそうに、笑う。
ほんとう。忘れてた。いつも、暖かい場所にばかりいて。
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