セクサロイドは眠らない

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2002年12月05日(木) 部長は、妙に私を気遣う顔をして、「飲みに行くか。」と、言った。私は、黙ってうなずいた。もうあの部屋には戻りたくない。

私は、ウサギと暮らしていた。

とても美しいウサギだ。真っ白な毛並みは、美しく手入れされ、その長く力強い足はとても速く走ることができた。目は、真っ黒でキラキラしていて、その目が私を見つめると、ドキドキさせられてしまう。

なんて美しい。

私は、ウサギと一緒に暮らしていて幸福だった。

私は、ウサギと自分が食べていくためにも、必死で働いた。昼間、ウサギが何をしているのかは分からない。ある日ウサギは携帯電話が欲しいと言い出し、通話料が日毎に増えた。私がそれを訊ねるとウサギは不機嫌になるから、私はただ、余計に残業して、ウサギの散財を補うのだった。

ウサギは、それでも、時々ものすごく意地の悪い事を言ったりもする。

たとえば、
「この部屋なんか、いつ出たっていいんだぜ。そうして、きみが働いている間に僕はいなくなってしまう。僕の早い足では随分と遠くに行ってしまうから、きみはとても探せないだろう。そうして、きみより美しくて、従順で、お金もいっぱい持っている女の子を見つけるんだ。」
とか。そんなことを。

私は、最初のうちは曖昧に笑っているのだが、ウサギは、静かな声で子守唄を歌うように、繰り返し、繰り返し、出て行く話をするものだから、ついに私は泣き出してしまうのだ。

私がひとしきり泣くのを見て、ようやくウサギはニヤッと笑い、
「馬鹿だなあ。出て行くわけないだろう?」
と、言う。

「そんなに、僕が簡単にきみの元を去るとでも?」

私は、泣きながらうなずく。

だって、ウサギはとても美しい。その瞳の魔力には、誰だって逆らえないだろう。それに私は、そう美しくもない。性格だっておどおどしている。ウサギが言うことは全部本当なのだ。

気付くと、ウサギは満足そうに寝息を立てている。

わたしは、泣き過ぎて腫れた顔を冷やしながら、ウサギの完璧な額から耳にかけての線をうっとりと眺めるのだ。

分かっている。ウサギはどこにも行きやしない。だが、もう、終わりのない遊びを繰り返さないわけにもいかないのだ。ウサギが本当に優しくしてくれたのは、最初の頃、ほんの一週間ほどだった。ウサギはすぐ退屈してしまって。それから、些細な喧嘩が原因で私がひどく取り乱したのをきっかけに、私をいじめるようになった。

--

ある日。

ウサギは、今日も働かず、寝てばかり。

冷蔵庫は空っぽだった。前の日に、ウサギが空にしてしまったのだ。誰かと騒いだのだろうか。仕事から帰ると、食べ散らかしたゴミなどで、随分とひどいことになっていた。足の踏み場もないとはこのことだ。すっかり酔っ払ったウサギは酒瓶を抱えて眠っていた。私はその場に座り込んだまま、しばらく動けなかった。あと一週間すれば給料が入るのだが、冷蔵庫に買い込んだ食糧以外はうちには余裕がなかった。ウサギの新しいビロードの衣装。携帯電話の料金。

私は、すっかり疲れ果てて、部屋を片付ける。

ようやく部屋が片付いたところで、ふと振り向くと、ウサギが仰向けに寝そべったままこちらを見ていた。

「なあに?」
「すまん。」
「いいのよ。」
「腹、空いたろう。」
「平気よ。」
「嘘だ。」
「だって・・・。」
「悪かったよ。あれで全部だったんだろう?」
「ええ。」
私は、仕方なくうなずいた。

「なあ。」
「なに?」
「僕を食えよ。」
「何言ってるの?」
「いいんだよ。僕を食べてくれよ。そうしたら、お前の苦しみは解消するだろう?お金の心配もなくなる。僕のことで気を揉む必要もなくなるんだ。」
「いやよっ。」

だが、ウサギはキッチンに向かうから。包丁を取りに行くつもりだと分かる。

「やめて。お願い。あなたがいないと私、生きていけない。」
しがみついて、泣く。

ウサギは、怒ったように
「痛いよ。離せ。」
と、騒いでいたかと思ったら、急に力が抜けたようにそこに座り込む。

「悪かったなあ。ごめんなあ。僕だって辛いんだぜ。」
私は、そんなウサギを抱き締めて泣く。

愛は、確かにそこにある、という気がした。

--

次の日。また、その次の日。私達は、お腹を空かせてふらふらになった。

ウサギは、つぶやく。
「なあ。お前の指。その無駄に太い小指を一本食わせろよ。」
「いやよ。」
「なんでだよ。俺は、お前のために体を投げ出そうとしたんだぜ。それなのにお前は、指一本でぐちゃぐちゃ言うのかよ。」

ああ。また、始まる。

ウサギの癇癪は、行くところまで行かないと、どうにも収集がつかなくなるのだ。

私は、もう我慢ならなかった。黙って、服を着替え始める。

「おい。どこに行くんだよ。」
「仕事。」
「そんな体でか?」
「ええ。職場の人だって、ご飯ぐらいは奢ってくれるわ。」
「だったら、俺はどうなるんだよ?」
「いつも言ってる、可愛い女の子とやらにご飯でも食べさせてもらえば?」

私は、もう、すっかり嫌気がさしていた。

バッグを取り上げると、部屋を飛び出す。空腹が?怒りが?私に、ウサギのことをどうでもいいと思わせた。

ウサギが背後でなにやら喚いている。

--

部長は、妙に私を気遣う顔をして、
「飲みに行くか。」
と、言った。

私は、黙ってうなずいた。もうあの部屋には戻りたくない。

部長は、何も言わず、私のそばでグラスを傾けて。

夜もすっかり更けた時、
「行こうか。」
と、低い声で言った。

私は、立ち上がり、寄り添う。

部長は
「お前、いつも一人付き合い悪くて帰っちゃうもんなあ。ずっと待ってたんだぜ。」
と、笑った。

部長は、私の肩を抱き、私は、自分の部屋までの道を、タクシーの運転手に告げた。

ウサギはいるだろうか。何て言うだろうか。もう、どうでも良かった。

部屋は電気が消えたままだった。

私は震える手で、鍵を開ける。

電気を点けると、そこにウサギがいた。

「なんだ、お前は?」
ウサギは、大声で叫んだ。

「ははん。」
部長は、ウサギを見ると、馬鹿にしたように笑った。

それから、飛び掛ってくるウサギ目掛けて、大きく分厚い手を振り下ろした。

ぎゃっ。

ウサギは気を失った。

部長は、ライオンの牙で、その体を切り裂いた。

私は、ただ、そこに立ち尽くして。目をまん丸にして。

「お前も食うか?」
と、聞きながら、なおも口を動かす。

私は、首を振りながら、無言でその光景を眺めていた。

腹いっぱいになったライオンは、私の部屋に寝そべって、まどろみ始める。その分厚い腕は、私の腰に回されたまま。

私も、何ヶ月ぶりかに安らかな気持ちになって、目を閉じる。ライオンの手の重さが心地良い。

ライオンは、ウサギを食べただけではなかった。私の狂ったような激情もきれいにたいらげて、のんびりとそこで眠っているのだった。


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