セクサロイドは眠らない

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2002年12月03日(火) もう何も言えなかった。こちらに向けた背を、背後から抱き締めたいと。そんなことを思いながら見つめていた。

たいした事を望んだわけではなかった。

ほんの小さなさざ波を立てることができたらそれで良かった。大した事を望んだわけじゃない。

ほんとうに。

女は聞き分けが良かった。わがままを言わなかった。外に出るのが嫌いな男のために、いつも家で待っていた。おいしいものを食べに連れて行ってとか、着飾った自分を他の男の目に触れるようにエスコートして欲しいとか。そんなことも、決して口には出さなかった。

女以外に妻と子を持つ、その男とは、もう七年だった。七年が長かったのか、短かったのか。今となってはよく分からない。ただ、七年かけてもどこにもたどり着かなかったことだけは分かった。それを思うと、少し寂しかった。付き合い始めた頃は、じっと待っていれば、私はこの男とどこかの岸に到達し、それから、手を取り合って、その島に小屋を建てられるのではないか、とか。そんなことを漠然と夢見ていたのだけれど。

--

ほんの小さな波風で良かったから、立てたかった。

だから、言ってみたのだ。
「あのね。」
「なんだ。」
「あのさ。」
「だから、何だよ。」

男は、テレビのディスプレイから目を離さずに、うるさそうな声を出した。

「妊娠。」
「え?なんだって?」
「だからね。妊娠したのよ。」
「おい。それってどういうことだよ。」

男は、初めて女の方に向き直った。

「だから、赤ちゃんが出来たみたいなの。」
「本当かよ?」
「うん。たぶん。」
「たぶんじゃなくてさ。ちゃんと調べてもらえよ。」
「うん・・・。」
「本当に俺の子なのか?」
「ひどい・・・。」

女は、思った以上に男の反応が激しかったので、驚いた。それでも、男の驚きが、もしかしたら喜びに変わるのではないか。そんな事を期待しながら、男の態度を見守った。

「で?どうすんの。」
男は、眉間にしわを寄せて、煙草に火を点けながら言った。

「どうって・・・。まだ分からないわ。」
「まさか、産むとか言わないだろうな。」

予想以上に強い口調で言われて、女はうなずくしかなかった。

「病院には、一緒に来てくれる?」
「ああ。まあ、それぐらいはな。」

分かっていた事だった筈なのに、女はちょっとばかり悲しかった。

女の表情が曇ったのに気付いたのか、男は立ち上がると服を着始めた。

「帰るの?」
「ああ。」

女は、そそくさと帰り支度をする男を見て、もう何も言えなかった。こちらに向けた背を、背後から抱き締めたいと。そんなことを思いながら見つめていた。

男が出て行くと、女は、くすりと笑った。失敗、失敗。さざ波どころか。こっちが大ダメージだわ。あはは、と笑う目尻から、涙がこぼれた。

--

男は、どうしたものかと思いながら、家路を急いだ。今夜ばかりは、我が家が恋しかった。中三の息子と小六の娘は、扱いづらくはなっていたが、もう男の生活の一部だった。

今日は、やさしくしてやれなかった。それどころか、邪険にしてしまった。だが、こちらだって、今抱えているものだけでいっぱいいっぱいなのだ。これ以上、どうにもならない。

彼女は一体、どうするつもりだろう。

月々渡しているお金以上のものを要求されたら、ちょっと困るな。

ましてや、どうしても産みたいなどと言わないだろうか。

そんな女じゃない筈だが、分からない。子供欲しさに、俺に黙って産もうとするかもしれない。そんなことにならなければいいが。

男は、そんなことを、ぐるぐると考え続けた。

やれやれ。

男は、子供を堕ろさせたら、女と手を切ろう、と思った。もうちょっと早く引き返していればこんな目に合わなくて済んだのに。だが、もう、遅い。せめて、手術の日は一緒にいてやろう。それから、体が回復するまでそばに付いていてやろう。だが、落ち着いたら、女が子を失った恨み言を言う前に逃げ出そう。

男は、そう決めて、家の玄関のチャイムを鳴らした。

--

女は、空っぽのお腹をさすりながら、思う。赤ちゃんが本当にいたら良かったのに。そうしたら、私、あの人と別れてでも産む。せめて、あの人の子供がいたならば。そうしたら、私の手元に、せめて赤ちゃんが残る。あの人の一部を受け継いだ赤ちゃんが。

だけど、子供はいない。

女はたまらなく寂しかった。

--

男は、苛ついていた。息子が借りたバイクで事故を起こしたという。くそっ。なんて事だ。面倒事というのは重なるものだな。妻が目の前で、バイクの弁償に要る金額やら、息子の入院費やら。そんなものを並べ立てて騒いでいる。あなたも、今月はお小遣いを半分にしてちょうだい、とわめいている。

ああ。なんて事だ。今まで好き勝手生きて来たばちが当たったのだ。そうだ。そうなのだ。

男は、明日、女に会いに行こうと思う。病院の廊下を抜け、こっそり女に電話を掛けた。

--

女は幸福だった。男が三日と空けずに来ることは珍しかった。下手したら、三週間とか、一ヶ月とか。そんな期間待たされるのは日常茶飯事だったのに。

赤ちゃんの事かしら。やっぱり、あの人でも焦ることはあるのね。

男を少し翻弄して、気が済んだらちゃんと言おう。「ごめんなさいね。嘘だったの。」と、ちゃんと言おう。

--

女は、嬉しそうだった。男は、女が嬉しそうなことで憂鬱になった。

男は言った。
「きみ、大事な体だろう?僕がお茶の用意はするから。」
「あら。嬉しい。」

女は、素直に喜んだ。

「あっちのソファで座って待っておいで。」
「うん。」

男が妙に優しいのを見て、女は心の中で舌を出していた。きっと、嘘だと言ってあげたら、男は安堵のあまり笑い出すだろう。そうしたら、私も一緒に笑って。その後は抱き合って。それから、少し恨み言を言うかもしれないけれど、それぐらいは平気だ。そんな想像をしていると、男が不器用な手つきでディーカップを運んで来る。

「初めてじゃないかしら。あなたがお茶を用意してくれるなんて。」
「そうかな。」
「ええ。そうよ。」
「はは、手厳しいな。」

男は、女がゆっくりとカップを口に運ぶのをじっと見つめる。

「どう?」
「おいしいわ。」
女は、微笑んでみせた。

「妊娠すると、味覚が変になるって聞くからさ。」
「ああ。そうね。本当。そうなの。」

女は口元を押さえながら。確かに、妙な味にも思えてくる。

いやだ。私、妊娠はしてないでしょうに。

男は、なおもじっと女を見つめている。

「何?」
女は、聞きながら、喉の奥が熱く焼けるような気がして、声がうまく出せない。

男は、返事をしない。ただ、その瞳は虚ろで。

何とか言ってよ、女はそう言おうとして、激しく咳き込む。喉の奥が熱くて苦しい。苦しい。くる・・・。

まさか?

女の目が見開かれる。私、死ぬのね?

「すまん。」
男が絞り出すように、ようやく声を出す。

「赤ちゃんなんて、困るんだよ。」
男は、悲しそうな目で、そう言った。

ああ。いいのよ。もう、いいの。私が立てようとしたのは、小さなさざ波だけど。思ったより大きな波紋をあなたの心に描いたようね。それで充分。女は、笑って見せようとした。だが、それも叶ったかどうか。


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