セクサロイドは眠らない

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2002年11月13日(水) 男性の声だった。うっとりするような、深みのある声だった。私より少し上の年齢の人のように思えた。

夫が仕事に行ってしまうと、長い長い一日が始まる。子供もいず、近所に友達もできないような。そんな私にとっては、夫が家庭にいるわずかな時間だけが誰かとしゃべる貴重な時だった。だが、このところ、夫は仕事で忙しく、私の言うこともろくに聞いてはいない。夫が出張中でも連絡が取り合えるようにとおそろいで買った携帯電話も、最近では、夫が私からの電話を受ける事をあきらかに嫌がるようになったために、ほとんど使われていない。

結婚って、なんだろう。

少ない家事を終えてしまうと、後はテレビを見るぐらいしかすることがない。たまの電話は、実家の母からだけ。

「なあ。あれだ。お前、パートでも出てみたら?」
夫が、昨夜そう言った。

「パートって。」
「まあ、俺の仕事だっていつまでこの調子か分かんないしさ。お前はお前で稼いでおいてくれたら、俺も気楽だからなあ。」

それが、夫流の優しさであることは分かっていた。

たまには外に出てみろよ。俺がいなくても、楽しい事って沢山あるんだぜ。

でも、私は、今こうやって夫を待っている生活で充分楽しかった。わざわざ、夫を喜ばせるために他の主婦に混じって働くのは身震いするほど嫌だった。
「そうねえ。でも、この不景気でハローワークもごったがえしてるし。」
「みんな必死なんだな。」
「ええ。私は、だから、幸せなのよね。」

夫は、しょうがないなという顔をしながらも、そんな私を優しく見つめていた。

それから、私がお風呂から上がった頃には夫は高いびき。夫は疲れている。今は、夫が家庭を気にせず思い切り働く事が私の大事な仕事。言い聞かせても、寂しくて涙が止まらなくなるのだった。

--

携帯電話が鳴っている。

見ると、番号非通知だ。誰だろう。

「もしもし?」
「ああ。真理絵さん?」
「え?あ。はい。」

男性の声だった。うっとりするような、深みのある声だった。私より少し上の年齢の人のように思えた。

「僕。覚えてます?高林。」
「さあ・・・。」

やだ。いたずらかな。

「そうか。ま、久しぶりだからなあ。覚えてないのも当たり前だよね。昔、バイト先で一緒だった事がある。」
「バイトで?」
「そう。で、きみに本を借りたんだけど。覚えてないかな。返そうと思った時には、きみはもう、バイトを辞めてて。ずっと探したんだけどさ。」

思い出せない。

「ごめんなさいね。思い出せないの。」
「そうか。ガッカリだな。思い出せないんじゃ、会ってももらえないだろうし。」
「ねえ。どんな外見?」
「どうって、普通だからなあ。背は、ちょっと高い。取り柄はそれぐらいかな。眼鏡はかけてない。ありがたいことに、髪の毛はまだたっぷりある。」
「そう・・・。駄目だわ。全然。」
「そっか。」

高林が電話の向こうで相当がっかりした声を出すものだから。私は、慌てて、取り繕おうとする。
「ねえ。もうちょっとヒントをちょうだい。バイトって、どこ?いつ頃?」

私達は、それから小一時間はしゃべっていただろうか。彼の語る事は、何から何まで記憶にあるのに、唯一、彼のことだけが思い出せない。

「ね。こうしよう。僕の事思い出して、会ってもいいと思えたなら、会って。ね?僕は、本を返したいだけだから。」
「分かった。」
「真理絵ちゃんにはずっと憧れてたんだよ。」
「え?ほんと?」
「はは。言っちゃった。本当だよ。でも、今は、やましい気持ちじゃなくて。本当に本を返して、お礼を言いたいんだ。」
「うん。分かった。」

私は、彼がまたかけて来ると言った言葉に安心して、切れた携帯電話を眺めていた。真理絵ちゃんなんて呼ばれたのも、久しぶりだった。

誰だったのかな。本当に。でも、いい感じの人だった。

--

私達は、それから毎日のように、電話でしゃべった。彼が、会社のお昼しか時間が取れないというので、その時間を心待ちにした。

「いいのかな。こんなに毎日。ご主人、妬かないかな?」
「まさか。放ったらかしよ。」

彼との電話は、楽しかった。私は、久しぶりに、笑った。

私は、彼の影響で、美容院に行ったり、服を買ったりするようになった。そんなことには案外とお金が掛かる。私は、夫に言ってパートに出ることにした。

夫は少し驚いて。それからまじまじと私を見た。
「どうしたの?最近。」
「うん。なんだかね。ずっと家にこもってばかりじゃいけないと思って。」
「ふうん・・・。」

夫は、眼鏡越しに、何か私をじっと観察しているようだった。私は、少しやましいものを感じてドキリとしたけれど。考えてみれば、何も悪い事はしていない。ただ、夫が以前言っていたように、パートに出たいと思っているだけだ。

「いいよ。パート。家の事がちゃんとできるなら。」
「うん。できるわ。」

夫に内緒は嫌だったから。夫が認めてくれて嬉しかった。

--

夫の視線が、何か探るようになっている。

私は、かまわず、近くの惣菜屋で働き、給料日にはちょっとした身なりを飾るものを買った。

高林からの電話は、相変わらず続いている。
「ねえ。僕の事、思い出せた?」
「うーん。それが・・・。」
「そっか。」

彼のことを思い出せないのもあったが、本当は少し怖いのだ。彼と会う事が。もう少し、綺麗になって。ダイエットもして。それから、会ってみたい。そんな風にも思った。

夫は、最近、そんな私を遠巻きに眺めているだけだ。

--

男の元に、女から電話があった。
「私。ね。覚えてる?」
「いや。分からない。きみ、誰?」
「え?覚えてないの?理沙よ。」
「理沙。理沙・・・。うん。分からないなあ。」
「残念。以前、お互いの友達の結婚式で会って、番号を交わしたじゃない?」
「そうだったかな。」
「ほら。河本くんと美香の。」
「ああ。その結婚式なら覚えてる。だが、理沙という名前には、悪いけど・・・。」
「ひどーい。」

男は、思い出そうと、目を細める。駄目だ。電話の向こうの女の声は、少しハスキーで、妙に脳の奥に絡み付いてくるような、素晴らしい声だ。こんな声の持ち主なら、忘れる筈もないのに。

女は、時折、電話を掛けて来るようになった。どうやら、上手い寿司屋を知っているから、今度連れて行ってあげようと。俺はそんな約束をしたらしい。その寿司屋は知っている。俺の幼馴染がやっているからな。話の辻褄は全て合っている。ただ思い出せないのは、その美声の持ち主。

--

もう、私と夫の間に会話はなかった。

ある日、夫から離婚届を渡された。

「これ、何?」
「俺達、一緒にいる意味ないよな。」
「ふうん。そういうこと?」
「ああ。そういうことだ。最近のお前は、もう、どこに気持ちがあるのか分からない。」
「あら。私のせい?あれだけ放っておいたくせに。私のせい?」
「いや。俺も悪いんだろうな。」
「当たり前でしょう?たまに電話しても、話し中だし。」
「忙しいんだ。」
「ほらね。自分は仕事を盾にするんでしょう?」

私は、届にサインして、判をついた。

ボンヤリと、高林のことを思っていた。夫と別れたら、もう、彼と会っても、何にもやましいことはない。ちゃんと言おう。あなたの事、思い出せないけど。だけど、あなたに会いたいの。ずっとそうだった。電話の向こうのあなたに恋してる。

--

離婚したばかりの男は、鳴らなくなった携帯を見つめて、酒場で酒を飲んでいた。妻は、いつの間にか自分を待たなくなっていて。自分もいつの間にか、他の女からの電話を待っていて。しょうがないな。結婚生活というものを、ちゃんと守れなかった。どこでどう、間違ったか。

--

「で?一体何があったって言うの?相手の浮気かい?」
実家で泣いてばかりの私に、母が問うてくる。

「何も。何にもなかったの。」
私は、ただ、二度と鳴らない携帯電話を握り締めて。

それは本当だった。夫の間にも、もう何もなかったから。

着信履歴は、番号非通知ばかり。

鳴らなくなればもう、はかない糸は切れてしまう。

何もなかった。何も残さなかった。彼が、誰かさえ。もう、男の苗字など、ありふれたものとして何の役にも立たないのだ。


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