セクサロイドは眠らない

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2002年11月05日(火) 「あなたは黙っているべきでした。」と、男は言った。誰にも黙っていれば、愛の記憶だけで、私が幸福になれたとでも?

専務は、やさしい笑顔の印象的な人だった。入社式で挨拶した彼は、背が高く、甘いマスク。しかも、社長の息子で、次期社長候補。女子社員の羨望の的だった。もちろん、私も、入社式の後は、興奮して友達と騒いだものだった。

遠くで見ていられればいい。手の届かない人。それだけで終わっていれば、私は、その会社に五年程勤めて、後は寿退社するような、そんな人生を送っていた筈だった。なのに。

偶然、エレベーターで一緒になった専務が、私を見て、「きみは、今年入ったのかな?」と聞いて来た時、私は、おもわず顔中真っ赤にしてうなずくしかできなくて。専務は、私の所属の課を聞いて来て、それを答えるのが精一杯だった。

その夜、アパートに電話があった。

「勝手に調べさせてもらった。ごめん。」
「いいですけど。あの。一体・・・。」

混乱した私は、何をしゃべっているのか分からなかった。

「明日、夜。二人で会えるかな?迎えの車を出すから。」
「はい。」

それだけが、唯一記憶している会話だった。

どういう事か分からなかったが、彼は、私に興味を持ったようだった。私は、高鳴る胸を抑えて、明日何を着て行こうと、そんな事ばかり考えていた。

--

仕事を終え、帰宅した時間を見計らったように、アパートの前に黒塗りの車がすっと止まった。

「昨日は、悪かったね。」
専務は、穏やかな微笑で私を包んだ。

「申し訳ありません。一体どういうことか全然分からなくて、ちゃんとした受け答えもできなくて。」
「一目見て恋に落ちるということがあるんだと、僕は、昨日初めて知ったよ。」
「恋?」
「ああ。恋だ。今、きみに恋している。迷惑かな?」
「迷惑だなんて。」
「良かった。実は、昨日一睡もできなくてね。」
「本当?」
「ああ。本当だ。それに、今、きみがそばにいて、ドキドキしている。」
と、彼は私の手を取って、自分の胸に当てた。

「ほらね?」
「ええ。本当に。」

子供みたいな人だった。今まで恋をしたことがない筈もないだろうに、彼は、はにかんだり照れたりして見せて、そのしぐさ一つ一つが私の警戒心をどんどんと解きほぐして行ったのだ。

その晩は、食事が終わると、あまり遅くならない時間に送り返してくれた。頬に軽いキス。
「また、誘っていい?」
私はうなずく。

一ヶ月。毎週のように、平日の夜、彼は私を迎えに来た。それから、付き合って一ヶ月目。それはちょうど私の誕生日だった。

彼は、私に、左手を出すように言った。私は、言われるままに黙って手を差し出した。彼は、そこに指輪を。
「え?」
「誕生日、おめでとう。」

彼は、私の誕生日も、指のサイズも、こっそり調べてこの日を待っていたと言う。
「長く付き合って欲しい。」

私達は、その晩、初めて結ばれた。

別れ際に、彼の気になる言葉。
「指輪は、僕と会う時だけしていておくれ。この関係は内緒だ。父に知れたら、僕らの関係は続けられなくなるから。」

その言葉は、後々、嫌になるほど聞かされるようになる。

二人の関係は、誰にも漏らさない事。噂は、怖い。言えば、多くが傷付くと。

--

三年は、夢のように過ぎて行った。

「専務は、やり手だが、少し優し過ぎる所が弱点だね。」
社長の具合が悪いから、そろそろ社長交代ではないかという噂が社内に流れるようになっていた。坊ちゃん育ちで、温和。彼の美点が、こういう時は致命的な欠点になる。もう一つ流れる噂は、彼の女性関係。水商売の女性とさまざまな噂が流れるものの、特定の女性と付き合ったという話は聞いた事がない、と、人々は言い合っていた。

当たり前だ。この三年、彼は、私とだけ、本当の愛を育んで来た。私は、その頃には、ぼんやりと夢見るようになっていた。社長夫人としての日々を。その日を夢見て、私は、何年も黙って彼の言葉に従って来たのだ。誰かに洗いざらいぶちまけてしまいたい衝動に、何度駆られた事か。だが、最終的には、大きな目標のために、私は口を閉じていた。

そんな時だった。社長が倒れたというニュースが社内に流れた。

しばらく、彼と連絡の取れない日々が続いた。

そんなある日。繋がらない電話をいつものようにダイヤルし続ける私の元に、いつものように黒塗りの車がやって来た。

彼だ。

私は、喜びのあまり、裸足で飛び出した。

だが、彼はいなかった。もう、来ないと、その男がサングラス越しに私を冷静に見つめながら、そう言った。それから、専務からです、と言って渡された封筒には、三百万が入っていた。

「どういう事?」
私の問い掛けに返事はなかった。

「辞表は早めに出してください。残りのお金は退職金と一緒に振り込まれます。」
男は静かにそう言い、背を向けて行ってしまった。

私は、泣いた。悔し泣きだった。残されたのは、指輪だけだった。

--

私は、田舎に戻り、母にお金をそっくり渡した。

母は驚いて私を見た。

「これだけになっちゃった。愛情は全部、お金に変わっちゃったの。ねえ。愛は、何も残さなかったわ。」
私は、笑ってみせた。

母は、泣いていた。

--

一年経った。同期の友達が結婚するというので、私は久々に上京した。

友達の顔は輝いていた。

「専務ほど素敵じゃないけど、この辺で手を打ったってとこよ。」
彼女の何気ない言葉に、胸がチクリとした。

二次会では、元の会社の噂で持ちきりだった。
「専務、いよいよ社長就任ですってよ。」
「会長も、結局あれから一年は現場で指揮を取ったんだから、すごいよね。」
「ついでに、結婚ですってよ。ほら。噂の社長令嬢と。これで、名実ともに、国内最大メーカーになるってわけ。」

そうだったんだ・・・。何も知らなかった。

「ね。あなたは?いきなり田舎に帰っちゃったけど。」
「私?今は、地元の小さい会社の事務よ。」
「びっくりだったわよ。社内にあなたのファン多かったからさあ。」
「母が、一人暮しだったから、帰らないといけなかったの。」

私は、その時、一番仲の良かった友人にだけは打ち明けたいと。そう思った。打ち明けるぐらいいいでしょう?結局、私は、貝のように、四年の間口を閉ざし続けた。

「本当に?」
「ええ。これが、その指輪。」
「見せて。」
「どうぞ。」
「すごい。本物ねえ。」
「うん。」
「で、捨てられちゃったんだ?」
「そういう事になるわねえ。馬鹿みたいだけど、迎えに来てもらえるんじゃないかって、ずっと思ってた。今日、専務の噂聞くまではね。」
「ひどい男ねえ。」

ひどい男ねえ。と、言って、誰かが私を慰めてくれる。それは、気持ちのよい体験だった。ずっと、自分だけが悪者のように、私は私を責め続けていたから。

「お金で解決しようとしたの。」
「ますます許せない。あーあ。私、専務には幻滅しちゃったな。」

いい。もう、これで。誰かが私のために腹を立ててくれている。

--

次の日、私は、勤めていた会社から解雇を言い渡された。それからは、目まぐるしい日々。元の会社から、例のサングラスの男が来た。そうして、私を病院に連れて行った。精神鑑定を受けさせられた。

「どういう事?何?どうしたの?」
「黙ってください。警察が動きますよ。」
「わけ、わからない。」
「あなたは訴えられたんですよ。専務の社長就任を前にして、変な噂を流しているという事でね。おとなしくしていれば、数ヶ月の入院で出られます。」

その後は、言いなりになるしかなかった。

あの子だ。あの子が、私と専務の事を言いふらしたのだ。

「あなたは黙っているべきでした。」
と、男は言った。

誰にも黙っていれば、愛の記憶だけで、私が幸福になれたとでも?

--

今、私は病室のベッドでぼんやりと過ごしている。

一度だけ、あの人が来た。
「すまなかった。」
とだけ言って、また封筒を置いて行った。

あの人は、変わらない。相変わらず、甘っちょろい人生を送っているように見える、その甘いマスク。

「あの時、きみがいなくなってから、随分と辛かった。」
と、言った。

私は、何も答えなかった。

--

病室で、母は、また泣いていた。
「母さん、大丈夫よ。」
「だって・・・。」
「ねえ。もうすぐ、社長が交代するわ。それからよ。動くのは。その子を連れて行ったら、きっと、将来食べるに困らないだけの事はしてもらえるから。ね。DNAの鑑定書を添えて乗り込んでいけばいいの。もし、これ以上私達にひどい事をしたら、新聞社にこの事実を流すって言ってちょうだい。」
「そんな事、できるかねえ。」
「大丈夫よ。ね。この子のため。お願い。」

そばにいる男の子は、真っ黒い、少しウェイブのかかった髪。きらきらと光る利発そうな瞳。何もかも、あの人に生き写し。

ねえ。随分とこの時を待っていた。

あれだけの月日が、何も残さないわけないじゃない。そんな風に言ってやりたかった。


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