セクサロイドは眠らない

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2002年11月03日(日) 「なんていうか。幸福なんです。だから、こんな幸福はいつまでも続かないだろうと思うと、悲しくなってしまって。」

窓から見える景色だけが、僕の目に映る変化だった。もう、長くこの部屋で死を待つばかりの僕にとっては、見る景色さえ選べないのだ。

「外は寒くなりましたわ。」
そう言いながら、マリアが入って来た。五年前から、僕の身の回りの世話をするために雇われた女。身寄りがなく、醜い。

ベッドで寝たきりの僕と部屋で二人きりになる事が多いから、美しい女ではまずいと思ったのであろう、母の配慮だった。

「体、拭きますね。」
マリアは、慣れた手つきで僕の体を動かすと、清潔なタオルで丁寧に拭き、血行が良くなるようにと、全身に程よい力でマッサージを施す。

マリアが、本当に醜いのかどうか、僕にはよく分からない。ただ、これ以上、僕の体の癖を知っていて適切に扱える女は他にいないだろうな、と思う。ともかく、僕には選択肢がなかった。テレビで見る女達は、美しいのかもしれないが、僕は生涯、あのような女とは縁なく生きる事になるだろう。

僕は、マリアのゆったりとたくましい体に身を預けながら、マリアに、「きみの事、美しいと思うよ。」と言ったらどうだろう、と想像してみる。マリアは、困るだろうか。恥かしがるだろうか。

だが、実際には、僕は言わない。僕とマリアの間では、必要な事柄以外の言葉は交わされないのだ。だから、マリアが僕の事をどう思っているかも分からない。

僕は、全身が少しずつ麻痺していく病気だった。いつか、自力で呼吸できなくなる日が来るだろう。そうして、心臓まで動かせなくなる日が来るだろう。そうしたら僕は死ぬ。僕が父から譲り受けたありったけの財産をもってしても、その事実は変えられない。

もし僕が死んだら、マリアはこの家を追い出されるだろう。せめて、マリアがこの先食べるに困らないだけのものを用意してやれたら、と思うのだが。

--

「なあ、マリア。」
珍しく、僕は自分から話し掛ける。

「なんですか?」
「小鳥が飛んでいる。」
「あら。本当に。」
「二羽だ。寒いのにね。」
「そうですわね。でも、気にしていないようですわ。」
「二人でいるから、楽しそうだ。」
「ええ。」
「ねえ。マリア。」
「はい?」
「きみは、恋をした事がある?」
「恋?いいえ。こんな顔ですもの。恋なんかしたら笑われますわ。」
「どうしてだい?恋ができる顔とできない顔があるのかい?」
「ええ。多分。恋は美しい人にだけ許されたもの。」
「じゃあ、僕もダメだな。こんな体だ。足はもう、萎えて動かない。手はまだ動くが、自分で起きあがる事もできない。」
「あなた様は美しいですわ。日に当たらない肌が透き通るようで。お母様によく似て、美しい。」
「美しかったら、どうだって言うんだ?恋が人を選ぶなら、僕は確実に選ばれない人間だよ。」
「あなたがその気になれば、幾らだって女の子の心を捉えられるのに。」
「本当にそう思うかい?」
「ええ。」
「じゃあ、僕にキスをしておくれ。」
「それは・・・。」
「できない?」
「ええ。できませんわ。だって、私は、あなたの相手にふさわしくない。」
「そうかな。」
「だって。今は私しかいないじゃありませんか。それは、あなたが選び取ったものじゃないですわ。もっと、他に美しい女性はいます。なんなら連れて来て差し上げます。」
「それも、所詮、あてがわれたものだ。自分で選んだものじゃない。今、目の前にきみしかいない。そういう場合、きみを選ぶのは、僕の意思じゃないと言うの?」
「お願いです。これ以上、私を困らせないで。」

マリアは、ほとんど泣きそうになりながら、僕の顔を見ずに部屋を出て行った。

僕は、考える。何か間違った事を言ったろうか?僕は、何とか憂鬱を吹き飛ばそうとする。彼女は僕の使用人だ。僕が何を彼女に言おうと勝手だ。と。だが、無理だった。彼女が僕をどう思うかまでは、僕にはコントロールできない。きっと、明日からもう、口も利いてくれなくなるだろう。

僕は、暗く沈み込む。

--

だが、マリアは、翌日も同じように穏やかな表情で、僕の体を拭く。僕は、少し安心して。それから、季節のことを訊ねたり。マリアは、いつものように控えめに受け答えをする。

マリアが仕事を終えて部屋を出ようとする時、僕はたまらず、訊ねる。
「昨日の事、怒ってないかい?」
「いいえ。まさか。嬉しかったですわ。でも、あまり私を困らせないでくださいね。」

マリアが去った後、僕は、マリアの豊かな胸の感触を思い出す。

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次の日も、次の日も。少しずつ、僕らは、今までは交わさなかった言葉を交わすようになる。今までなら、せいぜいが季節の事、食事の内容、僕の体調。そんな程度だったが、最近では、マリアの思っている事を訊ねたり、僕の体が良くなったらしたい事をこっそり教えてみたり。

マリアは、はにかみながら僕の言葉に返答を。それから、時に、泣き出してしまう事がある。

「どうしたの?」
「分かりません。」
「僕を憐れんでる?」
「まさか。ただ。なんていうか。幸福なんです。だから、こんな幸福はいつまでも続かないだろうと思うと、悲しくなってしまって。」
「おいで。」

僕は、不自由な腕を伸ばし、マリアの体を触る。マリアは、身を寄せる。僕とマリアの唇がそっと重なる。

何度も、何度も。僕とマリアは口づけを交わす。

--

次の日も、僕はウキウキとした調子でマリアを待った。

だが、マリアは来なかった。

母がやって来て、マリアは屋敷で問題を起こしたから、もう来ない、と言った。それから、新しい娘。テレビに出ているような美しい娘が僕に付き添うようになった。何でも、知り合いの娘さんとかで、明るく愉快な子だった。ひっきりなしに歌を歌い、人気の映画について教えてくれる。僕は、最初は、そんな美しい娘の言葉に驚いたり笑ったりしていた。そうして、うっとりと眺めている事も多かった。だが、次第に、なぜか憂鬱になって行く。

マリアの夢を良く見る。マリアと僕は、夢の中でも黙っている事が多い。だけど、誰よりも多くを共有し、少ない言葉で沢山の言葉を語れるのだ。

目が覚めると、悲しくて、どうしようもなくなる。

体の麻痺が進行して、次第に自由が利かなくなって行くのもあって、僕は鬱状態に陥って行った。病気の進行を早めるだけだから、気持ちは明るく持つように、と医者は言ったけれど、無理だった。

そんな間にも、驚いた事に、美しい娘が何度か僕を誘惑しようとした。時には、太腿をあらわに、僕の傍らに座ったり。添い寝のような格好で、僕の体をさすったりした。多分、僕の財産が目当てなのだ。娘はどこかのちゃんとした家系の出で、母にしたら、どこの馬の骨とも知れないマリアに財産を取られるよりよっぽどいいと思ったのだろう。

だが、僕は、マリア以外の娘に興味はなかった。

目の前の女は美しいけれど、あまりに遠いところにいた。ここにしか居場所がない僕やマリアのような人間とは全然違っていた。

僕は癇癪を起こすようになり、娘はとうとう音を上げて出て行った。

--

もう、僕は自力で呼吸ができない。一日中、不愉快なマスクをして、酸素を送り込まれている。

最後の願いを、母に言う。

マリアを呼んで来ておくれ。

母は、しぶしぶ従う。

--

眠っていたようだ。夢の中で、僕は、マリアの手を取って歩き、人々に祝福されていた。鐘が鳴っていた。マリアの手が、僕の額にかかった髪の毛をそっとはらって口づけた。

そこで目が覚めた。

髪の毛を払うマリアの手は本物だった。

「マリア。戻って来てくれたんだね。」
苦しい息の下で、言う。

「黙っていたほうがいいわ。」
マリアは、泣いていた。

「どうした?」
「戻って来られて嬉しいの。」
「僕もだ。」

マリアのふっくらとした手が僕の手を取る。

僕は、最後の願いをマリアに告げる。
「この邪魔なマスクを取って、キスをしておくれ。」
「でも、それではあなたが。」
「いいんだ。頼む。僕は、何も選べない人生を送って来た。僕が唯一できる選択は、目の前のものを受け入れるか、拒むか、それだけだった。今、僕は、マスクを拒み、きみの唇を選ぶ。お願いだ。」

マリアには、僕が何を言いたいかよく分かったようだった。

マリアは、うなずいて、そっとマスクを外すと、その唇を僕の顔に落として来た。

息は苦しかったのだろうが、それよりずっと幸福感が上回っていた。このまま、きみの唇の中で逝かせておくれ。

机の中には、きみに全財産を残すという遺言。

僕の、最後の、最高の選択肢。


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