セクサロイドは眠らない

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2002年10月24日(木) 僕を抱き締めた後のママの頬には、薄い切り傷ができていて、血が滲んでいる。僕はハンカチを取り上げて、

「痛い。痛いよ。」
母が、私の手の甲をあんまり強くつねるから、私は、途中から泣き出していた。

「ねえ。マサエ。痛いのは、辛い?」
「うん。」
「だけどさあ。パパは、あんたに痛い事しなかったけどさ。あんなにマサエの事、可愛がってたけどさ。あたし達を捨てて行っちゃったよ。」
「・・・。」
「ねえ。言葉ってさ。あてにならないよね。ずっとそばにいるとか。もう、目の前からいなくなったら、そんな愛があったのかどうかも分からなくなっちゃって。だけどさ。傷はいつまでも体の中でじくじくと痛み続けるのよ。」

お母さん、何言ってるか分からないよ。お母さん。それよか、笑ってよ。お父さんがいた時みたいにさあ。あの頃、お母さんはいつも笑ってた。

--

僕の体は、いろいろと問題があった。だから、病院から出られないのだ、と、医者は説明した。もちろん、僕は分かっていて、大人しく病院にいる。

ママは、忙しい。出て行ってしまったパパの代わりに仕事をし、僕を育てているからだ。仕事が終わってから病院に来る頃にはママはすっかり疲れている筈だが、ママはそんな事を感じさせない笑顔で、僕に図書館で借りた本なんかを読んでくれる。

「いいお母さんだね。」
「素敵なお母様ね。」

周囲がそう言うから、僕は笑ってうなずく。

僕はママを喜ばせようと、ママが来たらそのことを伝える。
「今日、主治医の先生がね。きみのところのママは頑張り屋さんだね、って僕に言ったよ。」
なんていう風に。

そう言うと、ママは、
「違うわ。」
と、言う。
「本当の頑張り屋さんは、あなたよ。」
「だって、僕は何もしてない。ベッドで本を読んだり、絵を描いたりしているだけで。」

ママは、唇をきゅっと結んで、首を振る。
「いいえ。あなたは、今、ゆっくりゆっくり、体の中が成熟しているの。ママには分かるわ。あなたは強い。」
よく分からなかったが、僕はうなずく。

「ああ。あなたが、ママの救いよ。」
ママは、僕を抱き締める。

ママ、そんなに強く抱き締めないで。そうしたら、ママが。

やっぱり。

僕を抱き締めた後のママの頬には、薄い切り傷ができていて、血が滲んでいる。僕はハンカチを取り上げて、ママの顔の血を拭く。

「ありがとう。」
ママは微笑む。

そうして、
「また,明日の朝、寄るからね。」
と言って、病室を出る。

僕は、玩具に囲まれたベッドの上にドサリと体を投げ出す。どうしてかな。最近、ママが見舞いに来ると、ちょっと疲れる。ママは、ほっそりとした美人で、僕にも自慢の母親なんだけど。中身までもが、壊れそうに見えるせいかな。僕は、ママが置いて行った、少々子供っぽ過ぎる児童書を放り出して、窓の外を見る。

--

僕の体は、誰にも抱き締められない。

原因不明の皮膚が固くなる病気で、今では、ゴツゴツとした岩のようになっている。岩男。そんなあだ名を、自分で自分につけている。皮膚が固いせいで、体毛も生えない。特に、頬や腕や足などは、厚い皮膚に覆われている。腹部から性器、瞼や耳の裏などは比較的普通の皮膚に近い。

僕を抱き締めると、僕の岩肌に触れて、相手の皮膚が血を流す。

--

「どうかな。調子は。」
ママが僕の病室に来ている時に限って、ハンサムな僕の主治医は、僕の様子を見に来る。

「いつもと同じです。」
「そうか。良かった。」
「手の平は、もうそろそろ、ヤスリを掛けて欲しいんですが。」
「ああ。看護婦に言っておこう。」

そんな事務的な会話の後、医者は、僕のママのほうに向き直って、
「お子さんは、非常に順調ですよ。」
と、気休めを言う。

順調も何も。悪くならない代わりに、良くもならない。

「あちらで、今後の治療方針について話し合いましょう。」
医者は、母の肩を抱いて病室を出て行く。

結局は、母のために、僕の治療を必死でするわけだな。

--

最近、気付いた。

ママは、僕をわざときつく抱き締める。かならず、どこかに傷を付けるために。そうして、「大丈夫よ」と微笑む。もう、僕は、十ニ歳だから、ママに抱き締められたいと思う年齢はとっくに過ぎているのに。だから、ママが来るとイライラするのかもしれない。

ねえ。ママ。もう、僕は抱き締められなくても平気だよ。ママは、僕をずっと抱き締めていてくれてたから。多分、他の子供が一生かかっても、こんなには抱き締められないぐらいの回数抱き締められたから。

その言葉が言えなくて、今日も、僕はママに抱き締められるままになる。

僕の皮膚は固い。ガラスの破片でさえ、僕の体を傷付けない。ずうっと幼い頃は、それでも、僕は普通の子供みたいな皮膚だったらしい。いつからか。奇妙な病が僕に取り付いた。

--

たまたま偶然だった。

病院の屋上で、ママの声がする。よく聞くと、僕の主治医の声も。僕は、驚いて足を止め、物陰に隠れる。

「返事は、まだ聞かせてもらえないのだろうか?」
「例の件ね。」
「ああ。」
「無理。随分と考えたのだけれど。」
「どうして?」
「だって。あなたは、私だけが欲しいのでしょう?」
「ああ。そうだ。だが、家族として愛する努力はする。」
「無理よ。あの子の事も、あの子の病気の事も、全部愛してくれなくちゃあ。」
「それは・・・。だから、少しずつ。」
「ねえ。本当に?あなた、多分、あの子に嫉妬するわ。あの子の病気に、かしらね。あの子の父親もそうだったのよ。」
「やってみなくちゃ、分からないだろう?」
「分からない、なんて言葉で、幸福を約束するつもり?」
「ああ。誰だって先の事は分からない。」
「ねえ。私は、今で充分不幸なのよ。これ以上不幸になるのは嫌なの。」
「じゃあ、どうすれば?」
「結婚は、しないわ。私、あの子を離れない。」
「きみこそ、なんでも子供のせいにするんだな。」
「そう思われてもいいわ。私は、あの子と、あの子の病気と、ずっと生きて来た。今更、切り離して自分の幸福なんか考えられないもの。」

そこまで聞いて、僕は、その場を離れた。ふらふらと病室に戻ると、ベッドの足元に倒れた。

その日から、僕は、熱を出し、吐き続けた。

ママが半狂乱になって泣くのを無視して、僕は、熱の中をさ迷った。

ママ、あっちへ行ってよ。

僕は、声を出す事もできず、眠り続けた。

夢の中で、パパがいた。パパは、こっちを見て手を差し伸べていた。僕は、パパの手を取ろうとして、ためらった。僕の体がパパを傷付けるから。パパは首を振って、僕に近寄ると、手を取って抱き締めて来た。

なぜか、その時、とても不安だった。

だが、パパは傷付かなかった。

ああ。そうだ。ここは夢の中だから。

僕は、安心して、そのまま抱かれるままに。

パパが僕を撫でる。僕の体から、ポロポロと固い皮膚が落ちて行く。僕は驚いてパパを見る。
「ママが、きみをこんな風にしてしまった。」

そこで夢が終わる。

--

「気が付いたのね。」
ママがいた。すっかりやつれて。

「あっちへ行って。お願い。」
「何て事言うの?」
「ねえ。お願いだ。あっちへ。」

僕はようやく声を振り絞ると、ナースコールを押す。

僕は、主治医に頼んで、面会謝絶にしてもらった。ママさえも遠ざけて。その日から、僕の皮膚は、夢の中と同じように、少しずつ固い皮膚が落ちて。

「驚いたな。」
主治医は、僕のきれいになった腕を眺める。

「まだ、ママに会いたくないのかい?」
「うん。先生には悪いけど、お願い。もう少し、ママを遠ざけていて。今、ママに会ったら、また、僕は元の体に戻ってしまう。」
「分かった。」

主治医は、溜め息をついて。

「ママにそっくりな顔だったんだな。」
「うん。」
「一つ、訊いていいかい?」
「何?」
「きみはママを憎んでいるのかい?」
「まさか。愛してるよ。でも、多分、こんな風になった僕を、ママは前のようには抱き締めてくれないと思う。」
「そうか。」
「先生も、ママの事を愛してるんでしょう?」
「ああ。あの人の愚かなところも含めてね。」
「だったら、そばにいてあげて。」
「うん。きみは大人だな。」
「あんなだったから。ずっと殻の中で考えていたんだ。殻から出たら、虫だって一回り大きくなるでしょう?」
「ああ。そうだな。」

主治医は、僕に手を差し出す。僕は、その手を強く握って、握手を。

「まったく。僕や、きみのママにも、目に見える殻があればいいのに。」
主治医は微笑んで、部屋を出て行く。

僕は、主治医に用意してもらったリュックを背負って、こっそり病室を出る。

誰も、僕とは気付かない。あまりにも、岩石の体を見慣れていたから。僕は、久しぶりに外の空気に出て、空気を思いきり吸う。

あまり長時間、日に当たらないように。

体が辛くなったら、電話しておいで。

そんな事が書かれた紙を握り締め、僕は、パパを探しに行く。

さよなら。ママ。


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