セクサロイドは眠らない

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2002年10月18日(金) 男の腕は彼女の腰に回り、彼女は、引き寄せられるままに男に身を預けていた。そうして、

朝、予備校に行く時、電車の中で一緒になる女の子に、僕は恋をしていた。その子は、どこかの専門学校に行ってるみたいで、いつも、友達と楽しそうにおしゃべりしていた。

ごく普通の子だったから、最初は気付かなかった。どちらかと言えば、主に友達がしゃべり、彼女はニコニコと聞いているほうが多い。そんな子だったから。

一方の僕は、平凡な予備校生。彼女いない歴は、年齢と同じ。そんな駄目なヤツだった。

だから、彼女を見ているだけ。

遠くから見ているだけ。

--

その昔、ストーカーという言葉がまだなかった頃だったら、僕は、ただの恋に焦がれる男だった。だが、今やってる行為は、ストーカーそのものだった。僕は、彼女を少しでも知りたくて、彼女の跡をつけて歩くようになった。専門学校では、コンピュータの事を勉強しているらしい。僕は、その学校の生徒のふりをして、専門学校に出入りしてみたり、彼女が朝と同じ友達と一緒にランチを食べているのを遠くから眺めていたり。

次第に、僕は予備校をさぼるようになった。昼ご飯もろくに食べず、彼女の姿を追い掛け回していた。それ以外、やるべきことが思い付かなくなってしまい、ただ、僕は、彼女を追い掛けるためだけに自分の人生を使うようになっていった。

--

その夜、僕は、彼女が出掛ける後ろを、こっそりつけて歩いていた。女の子が夜に一人で出歩くのは危ないから、何かあったら助けてあげよう。そんな言い訳を、心の中でしながら。

「おい。ちょっと。」
しわがれた声が、背後からする。

電信柱の陰から彼女を見ていた僕は、びっくりして振り向く。

誰もいない。

なんだ、気のせいか。

「おい。ちょっと。そこは、俺の通り道なんだよね。邪魔なんだよ。」

もう一度振り向いて、よく見ると、そこには猫がいた。ものすごく醜い猫で、僕は驚いた。黒いゴワゴワした毛には白髪が混じり、片目はつぶれ、尻尾はねじ曲がっていて、後ろ足の片方は少し引きずっていた。

「あ。すいません。」
その醜さに圧倒されて、僕は思わず丁寧に謝ってしまう。

「なに。いいさ。で?あんた、ここで何してんだよ?ここは猫の通り道だ。こんな狭いとこ、普通は誰も入り込まない。」
「人を見てるんです。」
「ほう。」
「とても可愛い子で。あ。ちょっと黙っててください。彼女を見失ってしまったじゃないですか。」
「当たり前だよ。お前さん、ストーカーみたいなことしてさあ。」
「ストーカーなんて言葉、よく知ってますね。」
「ああ。猫を馬鹿にするなよ。猫はなんだって知っている。」
「じゃあ、僕がさっき追い掛けてた子。知ってますか?」
「知ってるよ。時々、見掛ける。」
「この辺りで、何をしてるんでしょうね。」
「そうだな。それは、自分であの子に訊いたらいいんじゃないかな。」
「それができないから、こうやって追い掛けて来てるんですよ。」
「あの子の事、どうしても知りたいか?」
「ええ。」
「じゃ、あの子が今、どこで何やってるか、連れてってやろうか?」
「はい。お願いします。」
「じゃ、俺の目の中に入んな。」
「え?」
「目の中だよ。」

僕は、猫ににらまれた。すると、ぐいっと引き込まれる感じがして。それから、僕の視点はずっと低い位置にあって・・・。どういうことだ?

「どうだい。俺の目の中は。」
「いろいろ不便ですね。」
「まあ、ちょっとは我慢しな。」

黒猫は路地を出て、彼女が向かった方向に走って行った。

随分と走ったところで、公園に出た。彼女は、そこのベンチに座って、携帯電話のメールをしきりに見ていた。何やら、返事を返したりもしているようだった。

「誰かを待っているみたいですね。」
「ああ。見てろ。」

そのうち、一人の男が現れて、彼女の横に座った。初対面らしく、お互いによそよそしい態度だったが、そのうち、二人して立ち上がると、どこかに向かって歩き始めた。男の腕は彼女の腰に回り、彼女は、引き寄せられるままに男に身を預けていた。そうして、二人は、公園を出て、繁華街の方に歩き始めた。

「これから、あの二人、どうなると思う?」
「どうって。」
「だいたい分かるだろうが。」
「ええ。まあ。」
「彼女は、自分が持っているささやかなものを提供して、男から金をもらう。」
「言わないでください。」
「言わなくたって、それが現実さ。どうする?まだ、追い掛けるか?」
「いや。いいです。見たくない。」
「はは。さすがのストーカーさんも、これ以上は見たくないかい。」

もう、その時には、嫌でも彼女の体が男に抱かれるところを、彼女が娼婦のように笑うところを、想像していた。

「おいおい。変な想像するなよ。俺まで勃っちまうだろ。」
「すいません。」

もしかして、彼女がお金で寝るような子なら、僕にもチャンスはあるだろうか。つまり、その。彼女と。

「おい。そんな事、考えるな。」
「え?」
「ちゃんと彼女を見て、彼女と付き合うならいいがな。」

猫は、さっきまで彼女がいた公園のベンチのところに戻る。

ベンチの足元には、小さくちぎった紙切れ。

「彼女は、いつもここで、落ち着かない様子で男達と待ち合わせてるよ。そうして、レシートやらなんやら。小さく小さくちぎって。そうしたら、自分の心も小さくなってなくなるとでも思ってるみたいにね。」
「そんな事まで知ってるんですか?」
「ああ。猫はなんでも知っている。」
「・・・。」
「彼女はな。寂しいんだよ。両親は離婚してる。」
「知らなかった。」
「お前は、何にも知らないんだろ。」
「もう、彼女を追い掛けるのはやめます。彼女は、僕が思っていた子とは違う。寂しいからと言って、誰かに身を任せるようなのは間違いです。」
「そうか。じゃ、寂しいせいで誰かを追い回すのは、間違いじゃないのか。」
「それは・・・。分からないけど。」

僕らは、黙って、ベンチのところで長い夜を過ごしていた。黒猫はウトウトし始め、僕は夜空を眺めて、とめどないいろいろな事を考えていた。

「あら。猫さん。」
気付くと、彼女が黒猫を見つけて、駆け寄って来た。

「前にも見掛けた事があるわ。この辺りに住んでいる猫さんでしょう?」

黒猫は、眠そうな顔を上げて、彼女を見上げる。

「ねえ。ちょっとだけうちに来ない?」
彼女は、猫をそうっと抱き上げる。

黒猫は、素直に抱かれるままになっていた。僕は、彼女を間近で見れてなんだか幸福だった。さっきまで、彼女に対して怒ってたのに。

「ごめんね。付き合わせちゃって。いつもこうなの。ああいうことした後は、いつも寂しくて。誰かと話をして、朝まで抱き合って眠りたくなる。どうしてかな。」
そんな事を言いながら、彼女は、アパートで僕らを−黒猫を−を洗って、牛乳を出してくれた。

彼女の部屋は、清潔で。

彼女の布団の中で、僕らは丸くなって眠った。寂しい彼女と、寂しい僕と。それから、多分、黒猫も寂しい。

--

朝になると、彼女はいつものように身支度を整え、専門学校のテキストが入ったカバンを肩から掛けた。僕らにはニボシを一掴み。

「じゃあね。ばいばい。」
彼女は、いつもの笑顔で僕らと公園で別れた。

「ばいばい・・・、か。」
僕は、なんだかすごく寂しい気分になってしまった。

「おい。いい加減、俺の目から出ろよ。」
「ああ。はい。」

気付くと、僕は黒猫と向かい合って立っていた。

「どうしんだよ。これから。まだ、彼女の事、追っかけ回すのか。」
「それは・・・。もう、やめます。」
「彼女に失望したか。」
「いいえ。僕は・・・。うん。僕に失望しました。明日からちゃんと予備校に通います。それで、いつか彼女の寂しさとちゃんと向かい合えるようになったら、彼女に声を掛けます。」
「自分の寂しさとも、な。」
「そうですね。」
「じゃな。俺は行くよ。」

僕は、黒猫を見送って。

猫は、なんでも知ってる。わけではなくて、猫は、彼女のストーカーだったのかもしれない。その証拠に、彼女に抱かれた時、猫の心臓はバクバク言っててそのまま天国に行ってしまいそうに興奮してたから。そんな事を思い出して、僕は幸福になって、公園を後にする。


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