セクサロイドは眠らない
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2002年10月17日(木) |
そう、恨み言を言う彼の指は、もう、私の指を捕まえていて、私は、指先の感触だけでそこから立ち上がれなくなる。 |
外は秋晴れのいい気候だというのに、我が家のキッチンには重苦しい緊張感が漂っている。多分、いつものように、原因は私自身だ。その事が、息子の起き抜けの機嫌の悪さに拍車をかける。
「朝食は?」 「牛乳だけでいい。」 「そんな・・・。トースト焼いたから、一口だけでも。」 「いらない。」 「体に悪いわよ。」 「いいって。それより、また、朝から魚なんて焼いてんのかよ。馬鹿じゃねえの?」
息子は、不貞腐れたままの表情で洗面所にこもってしまった。また、長い時間かかってヘア・スタイルを整えるのだろう。
「なんだ。あの言い草は。」 さっきから黙って聞いていた夫が、こめかみの血管を膨らませて、押し殺したような声で言う。
「ああいう年頃なのよ。」 「だからって。お前もお前だよ。妻が夫のために朝食を用意する。それも、日本人なら、基本は味噌汁と魚だ。何も、息子に言われっぱなしになる必要はないだろう。どうして注意しない?」 「だって・・・。」 「そもそも、お前がそんなだから、息子があんな風になってしまったんだよ。俺は、ずっと仕事で忙しかった。それもこれも、お前と、あの馬鹿息子のためなんだよ。いいか?分かるか?おまえらは、俺にぶら下がって楽をして生きてるんだ。それなのに、俺を尊敬することさえできない。」
夫の小言が始まると、耳を塞ぎたくなる。ちょっとでも間違った態度を取ると、ますます火に油を注ぐ結果になるから、黙って、はい、はい、とうなずく。
息子が、玄関を出て行く音がする。
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パートの仕事は楽しかった。前なら、働きに出るなんて考えられなかった事だった。体の弱い息子のそばを離れる事ができなかったというのもあるが、何より夫が猛反対していたからだ。今だってろくに家事も育児もできないくせに、と、頭ごなしに怒られて、それっきりあきらめていた。
だが、今、こうやって働きに出て、普通に、パート仲間とお茶を飲み、笑い合うことの楽しさ。家庭に入ったまま、長くこんな感じを忘れていたことに気付く。給料は安いが、そんなにきつくはない仕事。定時にはきちんと終わるし。
今日も、五時が来たから、私はさっさと机を片付け始める。
「ねえ。今日、みんなで軽くビールでも飲みに行かないって言ってるんだけど?」 パート仲間の一人から声が掛かる。
「ごめんなさい。息子も待ってるし。」 「あら。そうね。分かったわ。でも、たまには息抜きも必要よ。」 「ええ。そうね。また、誘ってくださる?」 「分かった。じゃ、おつかれさま。」
私は、小走りにエレベータに乗り込む。その時、一緒に乗り込んで来たのは、営業の清水くん。
「おつかれさま。」 と、微笑んでくれる。女子社員一番人気の笑顔だ。
「おさき。これから、まだ客先?」 「ええ。夜じゃないとつかまらないとこがあるんで。」 「大変ね。」 「客先から帰って来た時、小川さんがいないのが寂しいですね。」 「あら。嬉しい事言ってくれるじゃない?」 「本当ですよ。」
「じゃ。また、明日。」 私と彼は、ビルの入り口で右と左に別れる。
少し年下の男性とこんな風に会話できるというだけで、私は細胞の一つ一つが潤うような感覚に包まれる。いやだ。年下にときめいたりして。私は、一人顔をほころばせて、家路を急ぐ。
「遅いっ。」 いきなり、罵声が響く。
「ごめんなさい。これでも一生懸命急いで帰ったのよ。」 「また、反抗する。いいか?お前がパートをする、というのがそもそも反対だったんだ。食事一つ作るにしても、随分と時間がかかる癖に、パートだなんてな。」
私は、夫のためにビールを出し、急いでエプロンをつける。
「さっさとしろよ。こっちは待ちくたびれてんだ。」 夫の声が背後から飛んで来る。
「すぐしますから。」 私は、仕事帰りの幸福な気分をめちゃくちゃにされて、思わず涙ぐむ。変なの。ちょっとした幸福のせいで、余計にいろんなことが悲しくなる。
「今日、晩めし、何?」 息子の声だ。
「さんまよ。それから、豚汁。」 「また、魚かよ。」 「体にいいのよ。」 「ふん。」
息子は、テーブルに座ってビールをグラスに注ぐ。
「おい。何飲んでる?」 夫が怒鳴るが、息子は無視してビールをぐいぐいと飲み干す。
私は、その光景をハラハラして見ている。結局、半分以上ビールを空けた息子は、そのまま、「晩めし、できたら呼んで。」と言い残して、部屋にこもってしまう。
夫は蒼白になって、ビールを見つめている。
ああ。また、小言が始まる。
頭が痛い。
本当に、何もかも投げ出してしまいたい。
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死が終わりではない。
何となく、朝、そんなことを思いながら、パートに出る支度をする。息子は、今日は友達の家に泊まりに行くとかで、夕飯は要らないと言う。ご迷惑掛けないでね、と、千円札を渡しながら小言めいた事を言うけれど、本当はホッとしていた。少なくとも、夕飯時に息子と夫がいるせいで、間に立ってオロオロすることは免れる。
「かあさんもさ。たまには好きなもの、食べろよ。毎晩、毎晩、魚ばっか。」 「ええ。でも、気にしなくていいのよ。」
分かってる。私のこんな態度が、夫も息子もイライラさせるのだ。
息子が出て行ってしまったので、私も、バッグを取り上げる。少し早いけれど。いいでしょう。キッチンに行けば、酔った夫にからまれるだけ。
私は、いつもより三十分ほど早い時間に家を出て、きんもくせいの香りを感じながら、歩く。外に一歩でれば、私は自由だ、という気持ちが蘇って来る。
「あれ。今日、早いですね。」 電車を降りたところで、清水くんが声を掛けて来る。
「ええ。なんだかね。家にいてもつまらないから。」 「僕も。」 「え?」 「小川さんに会えると思うから、会社に来る気になるんです。」 「やだ。もう。」 「ほんとですって。」 「私、もう、おばさんよ。」 「見えません。それに、そんなの関係ないです。小川さんって、何ていうか、いつも話をちゃんと聞いてくれるっていうか。励ます時も、頑張りなさいじゃなくて、んーと。そう。一緒に頑張りましょうよ、みたいな。なんか、すごいいい感じなんですよ。」 「お母さんだからでしょう。お母さんって、そんなものなのよ。」 「違いますよ。色っぽくて、どきどきします。」
上手いわねえ。
私は、笑った。もちろん、嬉しくて。その言葉が、今、私の機嫌を取るためだけに発せられたものであっても、嬉しい。随分と、こんなドキドキからは遠ざかっていたのだもの。驚いちゃう。
私と、清水くんは、会社に着くまで笑っていた。
気付くと、夕飯の約束をしてしまっていた。
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「どうしてですか?僕じゃ、駄目ですか?」 酔って駄々をこねる年下の男は、可愛いらしかった。
「そうじゃないの。息子がね。難しい年頃で。」 「いつも、息子、息子。僕が知りたいのは、あなた自身がどう思ってるかなのに。」
そう、恨み言を言う彼の指は、もう、私の指を捕まえていて、私は、指先の感触だけでそこから立ち上がれなくなる。
息子のせいじゃない。夫のせいよ。
そんな風に言ってしまったら、彼の反応はどうなるだろう。もし、彼が、息子と同じように軽蔑した視線を投げて来たら?私は、その場で死んでしまいたくなる。
大袈裟ね。と、笑い飛ばそうとしても、笑えないで、私はそこで彼の指の感触を自ら求めるしかなくなっていた。
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結婚してから、家を一晩空けたのは初めてだ。
早朝、そっと玄関を開ける。良かった。息子はまだ帰っていない。
途端に、雷が響くような怒鳴り声。 「どこに行ってた?」
私は、そこに立ち尽くす。
入れない。この家に。
声は、家中から響いているように思える。
どこに行っていた?この、あばずれ。家の事もろくにしないで、男と遊び歩いて。パートだって、最初からその目的だったんだろう?俺は知っていたさ。だから反対した。いい年した女が、男に言い寄られる理由は決まってる。まともな人間として扱ってもらっていると思うなよ。お前は、都合が女なんだよ。・・・・。・・・・。
私は、その場に立ち尽くす。
どうして。どうして、私を自由にしてくれないの?私は、両手で顔を覆う。
死んで、なお。この家に居座り、私を苦しめる。いつになったら、自由にしてくれるの?暴力が激しく、酒に溺れて、結局、自ら命を落としてしまった、夫。
私は、夫の亡霊から一生逃れられない。
その時、電話が鳴る。足が凍りついたように動かない。今、電話に出れば、夫の声が、電話を掛けて来た相手にも聞こえてしまう。どうしたら?どうしたら?
だが、電話があまりにもしつこく鳴るので、私は、ふらふらと受話器を。震える手で取る。
「誰からだ?おい。誰からの電話なんだ?」
耳を塞ぎたくなるような夫の声を背中に浴びせられながら、私は、ようやく声を絞り出す。 「どちらさま?」 「僕です。清水です。」 「あら。どうしたの?」 「あなたがちゃんと帰ったの、確認したくて。」 「大丈夫よ。心配症なのね。」
その時、私の目から、熱い涙。
「あの。いい加減な気持ちじゃないですから。」 「分かってる。」 「ご主人のこと。聞いてます。だいたいは。だから、あなたが怖がるのは分かってるんです。」 「そのことは・・・。」 「いいえ。あなたの目の怯えた表情をなくしてあげたい。」 「どうして、そんなに?」 「あなたを大事にしたいから。僕がまだ見てない、解放されたあなたを見たいから。」 「・・・。」 「すいません。変なこと言って。」 「ううん。嬉しい。」
私は、受話器をそっと置く。
もう、夫の声は随分小さい。
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それからも、家の中に響く夫の怒声は大きくなったり、小さくなったり。
私は、長い時間を掛けて、夫の夕飯を作る習慣をやめた。たまには、息子を置いて、パートの仲間と遊びに行くことも覚えた。
少しずつ、少しずつ。
そうして、今。
これが最後のチャンスだったかもしれないから。私の腕には、赤ちゃん。それから、年下だけどやさしい夫。もう一人の息子は、県外の大学に行ってしまったけれど、時折電話を掛けて来てくれる。
私は、今、素直な気持ちで仏壇に手を合わせ、現在の幸福を伝える事ができるようになった。
あなた、ありがとう。それから、ごめんなさい。
人は、本当に幸福になった時、ようやく全てを受け入れられるものだと。そんなことを気付くのに、随分かかった。
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