セクサロイドは眠らない

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2002年10月08日(火) でも、いつだって明るいから、僕らはみんな、彼女が病気だっていう事を忘れてしまうぐらいだった。

僕は、田舎の小さな小学校に転校して来た、小さなウサギだった。

父の転勤で、僕はその小学校にやってきたのだ。

僕はいじめられっ子だった。理由はよく分からない。多分、僕が小さいから。体も声も。だから、新しい小学校ではいじめられないようにしよう。そう思ってたけど、やっぱり駄目だった。前の小学校の時みたいにあからさまにいじめられるわけじゃないけど、体育の時間に僕が失敗するたびに、クスクス笑いが起こる。もちろん、友達だってできない。

そんなわけで、僕はその日、体育を休んだ。手を怪我したとか、そんな小さな嘘をついて。

その子は、しばらく休んでいたので、会うのは初めてだった。車椅子に乗っていた。とても可愛いウサギだった。

「転校生?」
と、その愛らしいウサギは訊いて来た。

「うん。」
僕は、彼女の目を見ずに答えた。

「どこから?」
「遠い街。ここよりずっと都会。」
彼女が尚も僕に質問をしてくるから、僕は恥かしくて、うつむいてしまった。

お願いだ。僕にかまわないで欲しい。だって、僕にかまったりしたら、きみまで笑われるよ。

「私、この村を出たことがないの。だから、他の場所に行ってみたいって、いつも思ってるのよ。」
彼女は、そんな風に言った。

僕を励ましてくれてるのかな。ふと、そんな事を思った。

「いつか、行けるよ。」
「いつか?そうかしら。」
「ああ。簡単さ。電車に乗って、駅を幾つかやり過ごす。途中でお弁当を食べたり。」
「すごく楽しそうね。」

僕は、ビスケという名前の、その女の子と友達になった。僕の名前はファーだと、自己紹介した。僕のことを、みんなチビスケと呼んでいたから、僕自身、自分の名前を忘れるところだった。

--

僕とビスケは、その日から友達になった。もっとも、学校ではあまり話をしない。ビスケは、学校でも他の子に話し掛けるのと同じように、僕に話し掛けてくれるけど。

ビスケは、いつも車椅子だった。どこが悪いのかな。訊いちゃ悪い気がしてなかなか訊けないでいた。ビスケは、時々学校を休むから、本当はあまり良くない病気を抱えているのかもしれない。でも、いつだって明るいから、僕らはみんな、彼女が病気だっていう事を忘れてしまうぐらいだった。

僕は、ビスケがいるから、いじめられても学校を休まなかった。

だが、僕がビスケと仲がいいのが気に入らないヤツはいる。僕は、ビスケが休んだある日、帰り道で石をぶつけられた。振り返っても、ヤツらは隠れて姿を見せない。僕は、ぐっと涙をこらえて、道を急ぐ。

それから、急に思いついて、ビスケを見舞う事にした。

初めて訪れるビスケの家は、とても大きいお屋敷だった。

「来てくれたのね。」
ビスケは嬉しそうに、僕を迎えてくれた。

「具合、悪いの?」
「そうでもないの。ただ、気分がどうしようもなく滅入る日があって。」

僕は、驚いた。ビスケはいつだって明るくて、落ち込む事なんかなかったから。僕は、いや、僕だけじゃなくて他のクラスメートも、彼女のそんな明るさに頼っていたのだと思う。僕は急に何かビスケを元気づける事をしてあげたくなった。僕は、ビスケに助けられてばかりだったから。一生懸命考えた。何ができる?

僕は、僕の秘密を教えてあげることにした。
「実はね。僕、みんなに隠していることがあるんだよ。」
「素敵。なあに?」
「笑わない?」
「笑わないわ。」
「誰にも言わないでね。僕、耳で空を飛べるんだ。」
「本当に?」
「うん。本当さ。」

ビスケは、僕が想像していたように、目をキラキラさせて、僕を見た。僕は、得意だった。

「ねえ。飛んで見せてちょうだい。」
「それは無理だよ。」
「あら。どうして?」
「飛んでたのは、小さい頃。まだ、母が生きてた頃。母が見ててくれたら、僕は空が飛べた。」
「今は?」
「母がいなくなってから、飛べなくなった。僕は自信を失った。」
「残念だわ。あなた、きっと飛べるのに。」
「そうかな。本当は飛んで見せたいんだけど。」
「今、分かったの。あなたが、小さいけど、勇気がある理由。あなたは、空を飛べる種類だから。空飛びウサギなのね。」
「そんなウサギがいるんだ。」
「ええ。今、考えたの。」

僕らは、笑った。

それから、僕は訊いた。
「ねえ。きみの病気、教えてくれる?」

ビスケは、口を閉じて。長い間黙っていた。
「私の病気?誰にも治せない奇病なのよ。耳が少しずつ短くなって、いつか、耳はすっかりなくなって、その時私は死んじゃうの。ウサギでも何でもない物になって。」

ビスケは、目を閉じたまま、そんな風に教えてくれた。

ビスケのヒゲが小刻みに震えていた。

僕は、ビスケを抱き締めた。

後で思えば、随分と大胆な事をしたものだ。だけど、その時は、どうしてもそうしたかったから。その後僕は、それが最初で最後。ビスケの耳が縮んで行くのを知るのが怖くて、僕はビスケを抱き締める事ができなくなった。

--

ビスケは、もう、学校に来なくなった。

僕らは、みな、寂しい思いをした。

いじめはエスカレートしていった。多分、ビスケが見てないから。そうして、寂しい思いも、僕にぶつけてきた。

僕は、激しいいじめにも平気なふりをして、ビスケを見舞う。

ビスケの耳は、もう、会った頃の半分ぐらいになってしまった。

「どう?調子は?」
僕は、訊く。

「まあまあよ。」
ビスケは、力なく微笑む。

ビスケのお母さんが、僕にそっと言った事がある。生きる気力が減ってしまっているから、病気の進行が早くなっているんだって。

「僕に出来る事はない?」
僕は、無理と分かって訊ねてみる。

「ないわ。なんにも。」
もう、ビスケは、僕の顔もあまり見ない。

「僕、もうすぐ転校するんだ。」

ビスケは、その時、ようやく僕の顔を見る。
「そうなの?」
「うん。父の転勤で。」
「また、帰って来る?」
「分からない。」
「でも、それがいいかもしれないわ。ここは、ちっぽけでつまらない村だもの。」

ビスケの口からそんな言葉を聞くのは悲しかった。

それから、僕らはもう、あまり話もしない。ビスケは、この村以外の場所の事を聞きたがるけれど、僕は、ビスケのいるこの村が大好きだった。ビスケが笑ってくれたら、そこが天国だった。

--

「僕、明日、村を出るんだ。」
「もう、お別れね。」

ビスケの耳は、もう、随分と小さくなってしまった。本当は、体の問題じゃなくて、気力の問題だ、と医者は言っているらしい。

「私の耳がすっかりなくなって、ウサギじゃなくなっちゃう所をあなたに見られなくて良かったかもしれないわ。」

ビスケの笑い声は、嫌な感じに響いた。

「ねえ。僕、飛ぶ。明日。だから、見ていて。」
「え?飛べるの?」
「もちろん、飛べるさ。見ていてくれたら。」

次の日、ビスケの屋敷の周りには、多くのウサギが集まった。僕は、今、風見鶏に捕まって、風を受けている。
「本当に、大丈夫?」
ビスケが不安そうに訊くから、
「大丈夫さ。」
と、笑ってみせた。

そうだ。きみが見ていてくれるなら。

僕は、ゆっくりと手を離し、風に乗った。一瞬、落下しそうになって、それから、体の力を抜くと、フワッと浮いた。

やった。

僕は、思った。

そうだ。あの頃、僕は、まだ、自分の体をそんなに意識していなくて。母は、ファー、素敵よ。と、笑って見ていてくれて。

僕は、その時の感じを思い出すように目を閉じて、体を風に任せた。

僕は、ゆっくりと耳を動かして、舵取りをする。

ビスケ、見えるかい?

僕は、少し余裕が出て来て、下で見ているみんなに手を振る。

窓からは、ビスケが見ている。多分。僕は、大きく旋回して。ビスケに手を振る。

ぐるんぐるん。

僕は、その瞬間バランスを失って落下する。

あっ。

それから、意識を失った。

--

気が付いた時には、僕は、もう、次の町の病院。

父が笑っていた。
「まったく、調子に乗りおって。」

ベッドのわきには、たくさんの花束。手紙。ビスケの手紙も。

「ねえ。僕、空が飛べるんだ。」
「ああ。知ってる。母さんも、そんな種類のウサギだった。」
父は、やさしく言って。それから、忙しい、と言い、いつものように仕事に行ってしまった。

僕は、ビスケからの手紙を開く。

そこには、あの頃のビスケが戻って来たような、明るい言葉。

「私は、耳がなくなってウサギには見えなくなっても、ウサギで。あなたを見ていて、ウサギ以上になれそうに思いました。ファーが空を飛んだ時、ファーは、ウサギよりも大きな可能性を私に見せてくれました。」

そんな事が書かれていた。

新しい小学校では、もう、僕はいじめられない。

そんな気がしていた。


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