セクサロイドは眠らない

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2002年09月30日(月) 僕は、それを気付いていながら、気付かないふり。彼女は、誰かになろうとしていた。僕の心を捉えて離さない、その人に。僕は、ずるい。

僕は、その電車で初めて彼女と会った。

いつも、静かに文庫本を読んでいる人。電車の中で、ただひたすらに。いつも同じ電車だと、自然、顔見知りのような気分になる。僕は、朝、電車に乗ると彼女の姿を探し、いればホッとする。いなければ不安に思う。

変だね。名前も知らないのに。

彼女は、僕の視線に気付いていたのかどうか。いつも、一心不乱に文庫本を読んでいた。その真剣な眼差しの先に僕がいることを、いつしか望むようになっていた。だけど、多分、彼女は僕を知らないまま。いつだったか、彼女の会社の同僚らしき人が彼女に話し掛けて、笑顔で答える光景を見た時、僕の心は嫉妬でズキズキと痛んだ。あれが、初めて彼女に恋していると気付いた最初だった。

そのうち、彼女の姿を見掛けなくなったのは、彼女と同じ電車に乗るようになってから、二年目の秋だった。

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僕は、彼女以外に恋ができなくなっていた。街を歩いても、彼女の姿を探す。職場の女性から誘われても、そっけなく断る。狂ったように、探した。

変だろう?

外見しか知らないのに。

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激しい恋愛感情は、受け入れ先を探して他人を傷つける。僕は、彼女が忘れられるかもしれないと、女の子達と手当たり次第、寝る。

だが、朝起きて、隣の女の子が僕に笑顔を向ける時、ぞっとする。きみじゃない。ねえ。早く服を着て、どこかに行ってしまって。

そんな時間を沢山過ごした後、僕は、どろどろに酔った店で、一人の女の子を見つける。

こんなとこにいたんだ?

「ねえ。僕の事、覚えている?」
首をかしげる彼女に抱き付いたまま、僕は意識を失う。

--

「気が付いた?」
水の入ったグラスを差し出されて、僕は、ボンヤリとうなずく。

それから、深い深い安堵に包まれる。やっぱり、きみだ。本当にいたんだ。

「ねえ。私のこと、知ってるの?」
「うん。」

僕の記憶よりも、ずっと派手に化粧して、短いスカートを履いている彼女に、僕はゆっくりと説明を始めた。

--

「つまり。その、名前も知らない女性が私だって言うのね。」
「ああ。」
「それ、多分、私の事じゃないわ。」

僕は、溜め息を吐く。

「見たら、分かるって思ってて、本当に分かった筈だったのに。」
「多分・・・。多分、だけど。それって、私のお姉ちゃんよ。」
「お姉さん?」
「ええ。一卵性の双子なの。双子の姉だと思うわ。」

イクミと名乗る目の前の女性は、あちこちタンスを引っ掻きまわして一枚の写真を取り出した。
「ほら。」

確かに、そっくりな笑顔で並んで写っている二人の女性は、どう見ても双子だった。

「どう?」
「髪形とか違ってて分からないけど、多分、彼女だ。」
「カオリっていうのよ。」

「ねえ。彼女、今どうしてんの?」
僕は、訊ねる。

「お姉ちゃんに会いたい?」
「うん。」
「多分、無理。」
「どうして?」
「心がね。ちょっとおかしくなっちゃったの。それで、病院に入ってる。お姉ちゃんね。私と違ってとっても真面目だったのよ。本ばっかり読んでて。男の人とも付き合った事、なかったんじゃないかしら。」
「それが、また、どうして入院を?」
「言えない。お姉ちゃんの事想ってくれてるのは分かるけど。お願い。これ以上は関わらないで。」

だが、どうしたらいいのだろう?忘れろとでも?

目の前の女性を見つめる。

「何?」
イクミは、僕の表情に気付いて、目をそらす。

「何でもない。」
僕は、答える。

それで終わる筈だった。だけど・・・。

--

イクミは、明るい子だった。お店のほうに行くと、僕の事も普通の客のように接してくれる。その笑顔に救われて、僕は何度も足を運ぶ。

時折、イクミは何か言いたげだったが、その言葉を飲み込んで。

いつしか、僕は彼女が店を終わるのを待つようになり、それから、二人で同じ場所に帰るようになった。僕らは夫婦になった。

「本は読まないの。」そう言って笑っていたイクミだが、本を読むようになった。集中力が続かないのか、すぐに本は閉じられてしまうが、それでも、彼女は努力した。茶色の髪は、黒に染めた。短いスカートは、膝を隠す丈に。

僕は、それを気付いていながら、気付かないふり。

イクミは、誰かになろうとしていた。僕の心を捉えて離さない、その人に。

僕は、ずるい。

イクミの向こうに誰かを見ながら、イクミを抱く。

--

ある夜、僕はいつものようにイクミの眠ったのを見計らって起きだし、キッチンで一人ブランデーを飲んでいた時。

眠っていた筈のイクミが起きて来て、僕の肩にそっと手を載せて、
「おねえちゃんに会わせてあげようか?」
と、言った。

聞けば、身内だけに外出許可が出るようになったという。

「まさか。何言ってるんだい?」
僕は、笑う。

イクミは、なおも、
「ねえ。ちゃんと会って。そのほうが辛くないから。」
と言うから、僕は酔い過ぎた頭でうなずく。

イクミは、数日、旅行に行く、と言う。お姉ちゃんに会う前後のあなたを見たくないから。と。

僕は、自分がやろうとしている事の重大さに気付きながら、何も言えない。それほどまでに、彼女の姉を愛していたのだ。

--

イクミから教えられたその場所は、施設のそばの公園で、イクミ、いや、いつかの電車の彼女と同じ顔を見つける。

ブランコに乗って、ゆっくりと揺れている女性は、最初僕を見ても何の反応も示さなかった。

それから、ゆっくりと立ち上がり、僕を見つけて小首をかしげる。

ああ・・・。

はじめまして。

それから、何と言おう。

僕の手は汗ばみ、心は震える。

--

「何もしなかったよ。指も触れなかった。」
イクミの顔を見て、そう言い訳をした。

「そう。」
イクミはそれだけ言って、何も答えなかった。

夫婦の間に悲しい空気が流れた。

それでも、良かったの?きみは?僕は?きみの姉さんは?

--

ニ、三ヶ月に一度、僕とカオリは逢瀬の時間を持つ。それが条件だ、とイクミは言った。お姉ちゃんに会わせてあげるから、私を捨てないで。と。

僕は、イクミの目を見ないで、うなずく。

「馬鹿だな。」
と、笑い飛ばせればどんなにいいか。

だが、僕とカオリは少しずつ心を通わせ始めている。もう、カオリを放す事はできない。今度は、カオリのために本を持って会いに行く予定だ。「カラマーゾフの兄弟」。どんな本だって、カオリは喜ぶだろう。本、好きだから。

--

イクミが事故に遭った、と聞いたのは、何度目かのカオリとの逢瀬の日。

その日、僕らは、いつもの公園で会う予定だった。だが、いつまで待っても来ないから、おかしいと思った。暗くなるまで待って、それからガッカリして帰った。

暗いままの部屋に、留守番電話が点滅していた。伝言は病院からだった。

「即死?」
「はい。どこかに急がれていたんでしょう。信号無視で飛び出したようです。」

医師の説明は続くが、何を言っているのか、混乱した頭ではうまく理解できない。

--

カオリに知らせなくちゃ。

僕は、奮える指で、カオリが入院している施設をダイヤルする。

「会って話したい事があるんです。カオリさんの身内です。」
僕はそれだけ言うのがやっとだった。

不謹慎だが、会える事も同時に嬉しかった。

僕は、電車に揺られて施設に向かいながら、思う。これからは、きみのためだけに生きよう。カオリ。

--

その病室は、明るい。

看護士は僕を案内しながら、言う。
「妹のご主人ということだけど、患者さんの事はご存知?」
「はい。」
「なら、いいわ。あまり刺激しないでね。レイプの後遺症から、知らない男性が近付くと大声で騒ぐ事があるの。」

レイプ?

そう言えば知らなかった。カオリのこと。何も。

部屋からは歌声が聞こえて来る。

「機嫌、いいみたいね。」
看護士は微笑む。

僕らは、その部屋に踏み込む。

目の前のベッドでは、見知らぬ女性。いや。確かに、でも、これはカオリ?だが、僕の知っているカオリではない。むくんだ顔の中で表情の抜け落ちた目が、こちらを見る。よく見れば、かすかに面影はあるけれど。

「違う・・・。」
僕は、つぶやく。

きみは、誰だ?

「カオリさん。妹さんのご主人よ。」

目の前の女は、僕の事を見ても、何も表情を変えない。

きみじゃない。

きみじゃないよ。

僕の恋したきみは、違う人だ。そこから逃げ出しそうになるのを、僕は、何とか踏みとどまる。

彼女は、歌い続ける。

「やっぱり分かるのねえ。いつもなら、パニックになるのに。」
看護士は、安堵したように微笑む。

僕が、ここに来るまで思っていた事。きみを。一生、これから・・・。その言葉を飲み込んで。

ああ。だけど。僕は、ベッドの上に伏して、イクミを想って泣き出す。最後の日も、僕との待ち合わせに遅れないようにと車を飛ばしたイクミを。

歌声は、低く、やさしく、響き続ける。


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