セクサロイドは眠らない

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2002年09月17日(火) 僕は、妻にそれ以上何か言うのをあきらめる。こういうことを話し合って、僕が妻に勝てたためしはないから。

土曜日。

珍しく、午前十時に目が覚めた僕は、窓を開けて、秋の空気を部屋に入れようと思い付く。

「おはようございます。」
隣の奥さんの声が、さわやかな風と一緒に飛び込んで来る。

「あ。おはようございます。」
僕は、あくびを飲み込んで、慌てながら、言う。
「いい天気になりましたね。」

「ええ。本当に。小学校は、今日が運動会ですってね。」
彼女は、空を見上げながら、そんなことを教えてくれる。

「へえ・・・。いや。そういうの全然知らなくて。」
「お仕事がいつもお忙しそうですものね。」
「ええ。まあ。土曜日にこんな早く起きたのは初めてですよ。」

ふふ、と笑う彼女は、ジーンズに軍手。首からタオルを掛けて、帽子を目深にかぶっていた。

「庭いじりですか?」
「ええ。」

お隣さんの庭は綺麗に手入れされ、美しい。それに引き換え、うちの庭ときたら、夏の間に伸びた雑草が見苦しい。

「いい趣味ですね。」
「他にこれといって趣味、ないですから。」

彼女はそう言って頭を下げると、再び、庭の手入れに戻る。

僕は、ベッドルームに戻り、耳栓までして眠りこけている妻を眺める。それから溜め息一つついて、妻の横にもぐり込む。

--

僕ら夫婦は、大学で同じ研究室だった。大学を卒業と同時に結婚したが、その時は、妻はもちろん、僕にも、妻が専業主婦になるという選択肢は眼中になかった。最初から共働きでスタートしたため、僕は妻に家の中のことを何も期待しなかったし、そのまま、僕達はいつも仕事の合間に慌しく愛を確かめ合い、マイホームを建て、休日の大半は疲れて寝て過ごす事に疑問を持たずに今日まで走って来た。

そうだ。

走って。走って。

「さっき、誰と話してたの?」
妻が、呂律の回らない口調で、問う。

「隣の奥さんだよ。」
「なんて?」
「庭の事。」
「そう・・・。」

妻は、また、眠ってしまった。疲れているのだ。

僕は、眠れなくなって、部屋を見渡す。庭と同じくらい荒れていた。読みかけの雑誌とCDのケースと仕事の資料が積み重なっていた。大半が妻の物だった。

そう言えば、以前、大学の仲間と一緒に飲んだ時、誰かが言ってたっけ。
「最近、片付けられない症候群ってあるじゃない?あれってさ。一見外では几帳面に仕事してる女性なんかの中にも、多いんだってね。」

あの時、妻は、
「それって、うちのことかも。」
って、笑ってた。

僕は、ベッドを抜け出し、キッチンでコーヒーを飲むと、妻が散らかしたものを片付けようと試みたが、どこから手をつけていいのか分からなくなって、結局あきらめてしまった。

--

「でしょう?私もそうなのよ。片付けようと思うんだけどさ。どっから手を付けていいか分からないうちに時間が経っちゃって、いつもあきらめちゃうのよね。」
と、妻は笑った。

「庭もさ。ひどい状態だし。」
「何?あなた、責めてるの?ちょっとは綺麗にしろって?」
「そういうんじゃないけどさ。」
「じゃ、どういうの?」
「いや。こういうのって、人間らしい生活かなって思って。」
「庭が気になるなら、専門の業者に頼んで、草を刈ってもらいましょう?私達が働いたお金で、草を刈る人にお金を払う。そのほうが、私達が草を刈るより、ずっと効率のいいお金と時間の遣い方ってもんじゃない?」
「そうだけど・・・。」
「じゃ、決まり。」

僕は、妻にそれ以上何か言うのをあきらめる。こういうことを話し合って、僕が妻に勝てたためしはないから。

それから、
「コーヒー、お代わり要る?」
って、訊ねる。

「ええ。お願い。」
妻は、読書用の眼鏡を掛けて、日経新聞に目を通す。

--

「おはようございます。」
その次の土曜日も、僕は、朝、窓を開け放って、隣の奥さんに声を掛ける。

「あ。おはようございます。」

だが、彼女は、僕から顔をそむけるように、しゃがみ込んで、地面をつついている。何もない、土の上を。

「あの。どうかしたんですか?」
僕が問うと、彼女は、こちらに顔を向け曖昧に笑う。

彼女の目の周りには、殴られたような痣が出来ていた。

何も言って欲しくなさそうだったので、僕は、黙って窓を閉めた。

--

「気持ちは分かるけどさ。あんま、口挟まないほうがいいんじゃない?」
妻は、きっぱりと言った。

「そうかな・・・。」
「うん。隣の奥さんもいい大人だし。それに、うちら、ほとんど交流ないでしょう?何かあった時、責任取れないしさ。」
「それもそうだなあ。」
「分かったら、はい。忘れる忘れる。」

妻は、僕の前でパチンと手を叩いて、シャワールームに行ってしまった。

僕は、すっきりしない気持ちで、隣の奥さんの寂しそうな顔を思い出す。

--

「実家から送って来たんです。」
スーパーの袋に一杯の梨を差し出して、彼女はにっこりと笑っていた。

もう、痣はほとんど分からない。

「ああ。すいません。実家って。ええっと。鳥取?」
「いえ。島根なんです。」
「そうですか。いや。ありがとうございます。お茶でも、と言いたいけど、まだ妻も仕事から帰ってないし。」
「いいんです。気にしないでください。」
彼女は、微笑んで、それから慌てて帰って行く。

梨をむいて、一口含むと、甘い果汁が口いっぱいに広がった。

--

「あの。私、もうすぐ、ここ出てくんです。」
今日も、庭越しに僕らは話をする。

「出て行く?」
「いえ。あの。主人、出てっちゃって。離婚届だけ送られて来て。だから、もうここにいられなくて。」
「で?どこに?」
反射的に僕は訊ねていた。

「まだ決まってないですけど。」
「あの。良かったら、居場所が決まったら、連絡くれませんか?」
「・・・。」
「いえ。あの。庭。」
「庭?」
「少し綺麗にしたいなって思って。だから、アドバイスというか・・・。」
「そうですね。分かりました。多分、今度越す場所は、庭なんてないし。」

男というのは、憐れにも、目の前の女の力になりたいと願う動物で。

僕は、妙に悲しくなって、窓を閉める。

休日の午前中。妻が起き出してくるまでの、ささやかな時間。僕は、図書館で借りた庭の手入れの本を眺めたりして過ごすのが、最近の習慣だった。

--

「で?」
妻は、恐ろしく静かに、問い返す。

「だから。僕らの結婚ってさ。間違いだって思う。」
「そう・・・?私はそうは思わないけど。」
「生活がない。これじゃ、別々に暮らしてるのと変わらないじゃないか。」
「あなたがそう思うなら、そうなんでしょうね。だからって、専業主婦やってくれそうな女を選ぶのが正しいかどうか、私には分からないけど。」

妻は、それから全てをあきらめたように、目を閉じて、言う。
「本当は、私、隣の奥さんみたいな人にコンプレックス持ってたのよ。」

強い女だと思っていたが、目の前の妻は、閉じたまぶたの奥で泣いていた。

--

何年か掛かって、ようやく手に入れた庭付きの一戸建て。

「おかえりなさい。」
妻が、笑って出迎える。

正確には、二番目の妻。以前は、隣の奥さんだった人。

「今日、何やってた?」
「球根を買って来たの。明日、植えようと思って。」
「それから?」
「それだけ。」
もう、会話は続かない。

部屋は隅々まで片付いている。

僕が何気なく放り出した靴下やらワイシャツは、あっという間に片付いて行く。

そう。これが望んだ生活だった筈だ。

「飲んで来たから、飯はいい。」
「そう・・・。」

寂しそうに、目の前の女はつぶやく。

「だから、あんたは甘いのよ。」
そんな事を言われながら、別れた前の妻と飲む時間は、楽しいから。その綺麗な家に帰る前に、つい寄り道をしてしまうのをやめられない。


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