セクサロイドは眠らない

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2002年08月16日(金) エリちゃんが、あんまり泣くものだから、僕は、エリちゃんの頬を伝う涙に思わず舌を出して触れた。

エリちゃんは、僕の頭を撫でて悲しそうな顔をするのだ。

原因はわかってる。

彼女の恋人だ。

僕が駄目だっていうんだろう?彼女の恋人は、猫毛アレルギーだから、僕が住んでる部屋に入るだけで、目は真っ赤になるし、ひっきりなしの鼻水も止まらない。

エリちゃんは、恋人と結婚したいと思ってる。そのためには、僕と一緒にいるわけにはいかないのだ。

「ずっと一緒だったのに。マンションに内緒にしてたし。」
エリちゃんは、ワッと泣き出す。

僕は、困って、エリちゃんの頬の涙をそっと舐める。

エリちゃんの涙は、僕が舐めても舐めても、後から溢れてくる。

--

僕は、そっとエリちゃんちを出た。

「エリちゃん、元気でね。」
僕は、つぶやく。

それから、深夜の街をヒタヒタと走る。僕、生まれてから、エリちゃんち出た事なかったから。間違って他の猫のテリトリーに踏み込んで、あやうく半殺しにされかけたりしたけど。

とにかく、走る。

ずっと前に聞いた場所に行くために。

--

その老婆は、僕の顔を見て。
「間に合ってるよ。」
と、言った。

「違うんです。」
「じゃ、何だい?」
「人間にして欲しいんです。」
「やめといたがいいよ。」
「どうして?」
「人間になるのは大変さ。猫みたいに気楽ってわけにはいかない。」
「だけど、もう決めたんです。どうせ、僕、エリちゃんに捨てられたら、死んだほうがましなぐらいですから。」
「やれやれ。」

魔女は、僕の顔をじっと見る。
「まだ、若いのにねえ。」

それから、小さなビンを取り出して渡してくれる。
「これを飲んで、どんな風になりたいか念じてごらん。」
「分かりました。」
「おっと。ここで飲まないでおくれよ。」

僕は、口にビンをくわえて、黙って頭を下げる。

「ほんと、あんたはラッキーだったよ。今日は、私の誕生日だからね。私はとても機嫌がいいのさ。人間にしたら若いほうがいいってことになるんだろうけど、魔女ってのは、年を重ねてこそ一人前だからね。あ。一つ言っておくけどね。今、あんたが心に想ってる人に、あんたが猫だったことを思い出してもらうこと。それから、愛してもらうこと。これが、永遠の変身を成功させるのに重要なことだから。一年経っても、あんたを思い出す人も、愛する人もいなかったら、あんたはもとの猫に戻っちまうからね。」

分かったよ!おばあさん、誕生日おめでとう!

僕は、心の中でそう叫んで、帰り道を急ぐ。

僕は、他の猫も人間も通りかからない路地裏で、その薬を飲む。バイバイ。僕の尻尾。僕のひげ。

--

「まったく、あんなところで裸で倒れてるんだもの。何事かと思うわよ。」

気が付くと、僕はシルクのパジャマを着て、フカフカのベッドに寝ていた。

「ここは?」
「ここはここよ。あんたを助けたの。」
「ありがと。」
「あんたが、そんなに若くて可愛くなかったら、とっくに警察に電話してるところだったわよ。」

化粧は濃いけど、美しいその人は、名前をサエコといった。

「僕、記憶がないんだ。」
「それで?どうするの?」
「分からない。恋人を探す。」
「恋人?」
「うん。」
「どこに住んでるの?」
「分からないけど。」
「話にならないわね。」

僕は、翌週からサエコさんのお店で働くことになった。サエコさんは、都内にカフェを幾つもオープンさせている、やり手の実業家だった。

僕は、本当ならサエコさんのマンションを出て行かないといけなかったのだが、サエコさんは、
「ここにいていいのよ。」
と、言ってくれた。

サエコさんは、時折、迎えの車に乗り込んで出かけて行く。なんでも、結構名の知れた人の愛人という噂だった。

僕は、サエコさんが出かける日は、サエコさんが帰って来るまで起きて待っている。

それから、サエコさんが化粧を落とし、お酒を飲むそばで、ただじっと座っている。そんな時のサエコさんはすごく悲しそうだ。

僕は、ただ、どうしていいか分からずに、サエコさんの向かいに座って。こういう時、猫だったら、尻尾が動いてしまうんだろうな。とか。そんなことを思いながら。

「ねえ。こういう時、人間だったらどうしたらいいのかな。」
なんていう台詞は、サエコさんを笑わせた。

「あんたって、まるで、以前は人間じゃない生き物だったみたいね。」
サエコさんが笑ってくれたので嬉しかった。

「余計なことは言わなくていいの。黙って抱き締めてくれれば。」

僕は、言われた通り、サエコさんを抱き締めた。

サエコさんは、子供みたいにじっとしていた。

--

ある日、カフェに、エリちゃんが来た。

僕は、エリちゃんに思い出してもらわないといけなかった。

だけど当然ながら、エリちゃんは、僕を見て何も気付かなかった。

「何にしましょう?」
「エスプレッソ。」

エリちゃんは、カフェインを取ると眠れなくなると言ってたのに、いつのまにかこんなものを注文する人になっていた。

「素敵なお店ね。こんなところに出来てたなんて。」
「ありがとうございます。」

僕は、ちょっと嬉しくて。それから、時折、エリちゃんは一人で店を訪れるから。

僕は、必ず、エリちゃんが来ると、エリちゃんの周りをうろついてみたり、声を掛けてみたりした。

エリちゃんは、ちょっとほっそりして大人っぽくなったみたいだった。

--

ある日、エリちゃんは、店の中で突然、泣き出して。

それで、僕はオロオロして。

店の外までエリちゃんを追い掛けて行ったことがあった。

エリちゃんが、あんまり泣くものだから、僕は、エリちゃんの頬を伝う涙に思わず舌を出して触れた。

エリちゃんはその瞬間、泣くのもやめて、僕をまじまじと見た。

「あ。ごめん。つい。」

エリちゃんは、ううん、と笑った。
「昔、こんな風に慰めてくれた子がいたわ。」
「誰?素敵なヤツ?」
「ちっちゃくて。いつだって、私を守ろうとしてくれたの。」

エリちゃんは、もう泣き止んでいた。

それから、
「恋人とうまく行かないの。」
とつぶやいた。

--

僕がとても幸福そうだから。サエコさんもあきれたような顔で見ていた。

--

それから間もなくだった。

エリちゃんが僕に結婚の招待状を見せたのは。
「来てくれる?」

僕は、混乱して、うまく答えられなかった。
「なんか、変だよ。僕が行くなんて。」
「そう・・・、かな。お友達だから。」
「友達?」
「そう。なんか、あんまりしゃべらなくても、なつかしくて。私の大事な部分を知っているお友達。」
「僕・・・。」
「いいの。どうせ、お店が忙しいんでしょう?」

エリちゃんは行ってしまった。

--

式の当日。

サエコさんが、へまばかりする僕に、
「帰っていいわ。」
と言った。

僕は、エリちゃんの結婚する会場に走った。

花嫁控え室を探して、僕は、飛び込んだ。

エリちゃんは、すごく綺麗な花嫁さんだった。

「あの。」

エリちゃんは、
「来てくれたんだ?」
って言った。

「ごめん。こんなところまで。」
「いいの。すごく嬉しい。」
「すごく綺麗だ。」

それから、エリちゃんが目をつぶる。

僕は、エリちゃんの唇に、僕の唇を。

唇を離すと、小さく溜め息が漏れる。
「ねえ。思い出したの。あなたが、誰か。あなた、私が飼ってた・・・。」

僕は、うなずく。
「ありがとう。思い出してくれて。」

ドアの外で、新郎の声がする。
「入っていいかい?」

「幸せにね。」
僕は、エリちゃんに片目をつぶって見せると、窓からヒラリと飛び出した。猫は身軽だから、さ。

--

「馬鹿ねえ。」
サエコさんが、お尻に湿布を貼ってくれている。

「とにかく、無茶よ。なんで三階の窓から飛び降りたりしたの?」
「前は、あれぐらい平気だったんだ。」

サエコさんはそれから、グラスを二つ持ってくる。
「ね。人間だとね。こういう時は、お酒を飲むのよ。」

僕は、
「もらうよ。」
と言って、笑おうとするけれど、その顔は痛みのせいで少々歪んでいたに違いない。


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