セクサロイドは眠らない

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2002年08月07日(水) 足の感触が、スカート越しに伝わって来て、僕は、動悸を抑えられない。友人打たれて跳ねる足を、夢想する。

一時帰国していた僕が友人の別荘に呼ばれたのは、夏の初めだった。

彼は、小説家で、夏の間は山奥にあるその別荘にこもって小説を書いているというのだ。

その別荘は、山の奥深いところにあった。誰も知らないような場所。

汗だくになって辿り着くと、友人が笑顔で出迎えてくれた。
「遠かったろう。」
「ああ。まいったよ。なんでこんな場所に?」
「うるさいやつらが来なくていいしね。何より、涼しいし。」

確かに、エアコンなどなくても、そこは涼しく、何より静かだった。

僕は、友人のそばに寄り添っている車椅子のほうに目を向けた。

「僕の妻のマリだ。」
友人は、紹介した。

その女性は、
「座ったままでごめんなさいね。」
と言いながら、頭を下げた。

下半身はロングスカートに包まれて、膝にはブランケットが掛けてあった。黒い艶やかな髪の毛がゆるく編まれて胸元に垂れていた。

「驚いたな。いつの間に結婚したんだよ。」
「マスコミに嗅ぎつけられるとうるさいんでね。内緒にしてたんだよ。」
「あれだけ、結婚なんかに縛られるのは嫌だって言ってたのに。」
「気が変わったのさ。きみだって、彼女と話せば分かるよ。」

そんなやり取りを、マリは、微笑んで見ていた。

「これ、おみやげ。」
僕は、手にしていたものを友人に渡した。

「これは?」
「いま、ニューヨークあたりで話題の絵さ。」

その絵には、躍動するイルカが描かれていた。

「見せてちょうだい。」
マリが言った。

マリは、その絵を見ると、何かショックを受けたように、まじまじと絵を見つめた。

だが、友人は、
「後で掛ける場所を決めよう。」
と、マリの手からその絵を取り上げてしまった。

「腹減ったろう。何か用意するから、きみも手伝ってくれ。」
友人は、僕に言った。

「おいおい。客に手伝わせるのかよ。」
「ああ。この別荘では、主人も客もないんだ。」

僕らは、マリを残してキッチンに行った。

そこで友人は声をひそめて、言う。
「マリのことなんだが。」
「ああ。」
「記憶を無くしてる。」
「そうか。」
「なにもかも、事故のせいなんだ。」
「一体、何があったんだよ。」
「海の事故だ。たまたま居合わせた僕が助けたのが、付き合うきっかけなんだよ。マリは、足を片方なくしている。」
「そうか。」
「だから、あの絵は悪いが・・・。」
「ああ。分かった。」
「海でのことを思い出させたくないんだ。」

その時、友人が本当にマリという女を愛していることを痛いほどに感じた。あの、女好きで、会うたびに違う女性を連れていた友人とは別人のようだった。

--

午後は、三人で飲んだり食べたりして、旅の疲れを癒した。主に、僕と友人ばかりがしゃべっていて、マリは、黙って聞いていることが多かった。

僕が、酔った勢いでマリにワインを勧めると、マリは、
「ごめんなさい。私、あまり飲めないの。ほら。私、体がこんなだから、お手洗いが近くなると面倒なの。」
と、言いにくそうに言った。

僕は、「ああ。」と、だけ言って。

マリを見ていると、懐かしいようなもの。何か、失われてしまったもの全部がそこにあるような気分に襲われる。

夜が更けて来た。

友人は、一言、
「もう寝よう。」
と言って、立ち上がり、マリの車椅子を押して出て行ってしまった。

--

飲み過ぎて眠りが浅かったせいもあるだろう。夜中、奇妙な物音で、僕は目を覚ます。

何かを打ち据えているような音。それから、小さく響く悲鳴。

マリの悲鳴だ。

僕は、そっと客室を抜け出して、音のする方に行った。

その部屋には、友人とマリがいるようだった。

夫婦だもの、当たり前だよな。

友人は、しきりにマリを責め立てるような言い方を取り、マリの体を打っているのだろう音がそれに混じって響いて来る。マリは、打たれるたび、悲鳴を。

僕は、耳を塞いで、部屋に戻る。

朝まで眠れない。

--

朝食の席で、僕は、マリの顔をそっと見る。

何もなかったように、無傷な笑顔があった。腕などの露出している部分にも、何の痕跡も。あれは夢だったのだろうか。友人に向けるマリの眼差しも、信頼と愛情に満ちていて、僕が思わず嫉妬するほどだった。

--

だが、夜な夜な、マリの悲鳴が聞こえる。

僕は、耳を傾けずにはいられない。

そうして、マリの白い裸身を想像する。

--

夏も終わり頃、友人は一週間ほど東京に戻ってくる、と言う。
「マリを頼んだ。」
「ああ。」

それでか。と、思った。マリを一人ここに置いて、別荘を空けるのは心配だから、僕が呼ばれたのか、と。

友人は、別荘を発つ間際、マリにそっと口づけて。

マリの髪を、顔を、記憶に刻むように見つめ、それから背を向けて出て行った。

僕は、マリと二人きりになってしまった。

「さて。どうする?暇つぶしにトランプでも?」
考えてもみれば、陽気で話好きの友人がいなくなると、僕らは途端に気まずい空気をそこに意識するのだ。

「お願いがあるの。」
「え?」
「海に連れて行って。」
「海?だけど、それは・・・。」
「お願い。」
「ああ。分かった。」

あいつには、内緒で行きたいんだね。

僕は、マリを抱き上げて、車を停めた場所まで歩いた。片方しかない足の感触が、スカート越しに伝わって来て、僕は、動悸を抑えられない。友人打たれて跳ねる足を、夢想する。

車の場所まで辿り着いた頃には、汗で体がびっしょり濡れていた。

「無理お願いして。」
「いいんだ。」

彼女の白い手が伸びて、僕の顔を流れる汗に触れる。

「行こう。」
その後は、二人とも無言で。

僕は、彼女の告げた海に向かって車を走らせる。

--

「着いた。」
「連れて行って。」
「ああ。」

岸壁から見下ろす海は、波が白く砕けては飛び散り、それは海が手を伸ばして誘っているようにも見えた。

彼女が、あまりにも魅入られたように海を眺めているから。

僕は、ふと、不安になって、
「帰ろう。」
と、言う。

マリは、
「思い出したわ。」
と、僕にささやいて。

それから、僕が抱く腕をほどいて、彼女はヒラリと海に向かって体を投げた。

長いスカートがひるがえって、そこには、美しい曲線を描く尻尾が見えて、うろこがキラリと光った。

--

僕は、長い間、そこに立ち尽くす。

友人は、こうなることを望んでいたのかもしれない。そうして、わざと留守にして、僕をマリと二人きりに。

彼女を海から離して、狭い別荘に閉じ込めて。だが、友人もまた、魂を囚われて。二人、そこから動けないままに、傷つかない肌を傷つける遊びを繰り返していた。

そうだ。僕だって、海で人魚を見かけたら、連れ帰らずにはいられなかったろう。

僕は、車に乗る。

助手席に残された一枚のうろこが、哀しく光る。


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