セクサロイドは眠らない

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2002年07月10日(水) 夜が明けて、彼女が僕にもたれかかって眠り始めた時。その、ヨレて固まったマスカラに口づけて、僕は、部屋を出る。

僕は、まったくもってヒツジらしいヒツジで。

仕事は「ひつじ保育園」の保育士だ。

と、他人に言うと、
「まあ、お子さんが好きなのねえ。」
とか、
「素敵なお仕事ね。」
とか、大体そんな風に言われる。

僕も、そう言われてまんざらでもないわけだが、時には反論したくなることもある。

給料安いしさ。仕事きついしさ。子供のうんち、しっこ、片付けて回るの大変だしさ。

とかね。

だけど、基本的には、僕は子供が好きなんだろう。だから、なんのかのと言って、もう三年続いている。

--

ある日の事。

朝、子供達を出迎える時間になって、僕はいつものように保育園の門の外に立つ。

母親と離れるのが悲しくて泣いている子を、抱っこしたり。

「先生おはよーっ!!」
って、思いきり大きな声で挨拶してくる子のほっぺに付いたご飯粒を取るのとかも僕の仕事。

「おはよう。」
「おはよう。」
そんな言葉が飛び交う朝の風景で、僕は一人の女のオオカミを見かけた。僕は、ドキリとして。子供達を狙うオオカミだったら、すぐさま追い払わなくては。

そう思って身構えた僕だったけれど。

そのオオカミは、よく見れば、とても美しい毛並みのオオカミで。しばらく子供達を眺めていた後、僕の視線に気付いたのか、そそくさと立ち去った。

その横顔に、キラリと光って見えたのは、涙かもしれない。

僕は、その涙にドキリとして。

--

久しぶりに仲間と飲み過ぎた夜の街で。

僕は、酔っぱらって友達と別れて、謝ってオオカミがたむろする酒場街に迷い込んでしまった。

やばい!

僕がそんなことに気付いたのは、フラフラした足取りでよろけた拍子にオオカミにぶつかってしまったから。

ギロリと睨むその瞳に身がすくんだ、その時に。

「ごめんなさいね。」
と、僕の腕を取った女がいた。

「なんだ、ねえさんの連れか。」
ぶつかって来たオオカミは、彼女を見ると表情を緩めて。

「兄さん、気を付けなよ。ただでさえも、その真っ白な巻き毛は目立つんだからな。」
と笑って、去って行った。

「何やってんの。危ないじゃないの。」
「すいません。」
「それに随分と酔って。しょうがないわね。あたしの店で休んで行きなさいよ。」

僕は、手を引かれるままに、彼女について行く。

「さ。この隅に、ね。大人しくしてるのよ。今、お水持ってくるから。」
その女の横顔を見て、僕は思い出す。

「あんたは・・・。」
そうだ。「ひつじ保育園」にいた、あのオオカミ。

「あら。しょうがないわね。バレちゃったか。今朝は迷惑掛けたわね。」
そう言って、仕事に戻る彼女の尻尾は、素晴らしくフサフサで。僕は、そのオオカミに恋をした。

--

オオカミの街には二度と入るなと。

そんな風に言われたのに、来てしまった。僕は、彼女の住むアパートの前でドキドキして待つ。

手には花束。

そんなもの、と、鼻で笑われるかもしれないが、僕には精一杯の事だから。だから、もう、夜が更けて、オオカミ達の遠吠えが聞こえて来ても、僕はじっと我慢して待っていた。

ようやく明け方になって、彼女が戻ってくるヒールの音。

僕は、ホッとして、彼女の前に飛び出す。

「ひっ。」
と声を上げて、それから、僕だと気付いて笑い出す彼女。

「なんだ、びっくりするじゃない。」
「ごめん。」
「いくらあたしの肝がすわってるって言ってもね。夜道はやっぱり怖いからさあ。ま、とにかくあがんなさいよ。」
僕はてっきり彼女に怒られるかと思ってたけど、そうじゃなくて、嬉しくなった。

「にしても、一体何よ?この花は?」
「プレゼント。」
「馬鹿ねえ。この部屋見てよ。花瓶もないのに、どうしろっていうの?」

彼女は、あきれたように花束を受け取ると、それでも、花びらに顔をうずめて、クンクンと嗅いで。その顔はすごく嬉しそうだったから、僕も、やっぱり嬉しかった。

そうして、彼女がグラスを出して来て。

乾杯、って。

それで、明け方までしゃべった。彼女が疲れて仕事から帰ったんだったてことに気付いたのは、夜が明けて、彼女が僕にもたれかかって眠り始めた時。その、ヨレて固まったマスカラに口づけて、僕は、部屋を出る。

その日は、保育園の運動会の練習があったので、僕は昼間、暑いグランドで倒れそうになりながら。

それでも心がいっぱいになるほど、幸福だった。

--

「ねえ。今度の夏は海に行かないか。」
僕は、彼女を抱き締めてささやく。

「馬鹿ねえ。私が一体幾つだと思ってんの?もう、水着着るような年齢じゃないし。それに、みんなが何て思うかしら?オオカミとヒツジが海に行ったら。」
そんな会話をしていると、僕は彼女に拒絶されているようで、とても悲しい。

外見なんかどうでもいいじゃないか、と思う。

僕ら、こうやってずっと隠れて付き合わないといけないの?

「子供みたいなこと言わないで。」
少しむくれた僕を見て、彼女が口づける。

「ねえ。以前、ひつじ保育園できみを見かけた時。」
「ええ。あの時は、迷惑掛けたわね。」
「きみ、あの時泣いてた?」
「泣く?私が?まさか。」
彼女は笑うけれど。

彼女の部屋で笑っている、子供のオオカミの写真は、一体、誰?とも聞けないでいる。

--

そんな付き合い。

ねえ。笑うかな。

彼女のほうが、腕っぷしもずっと強いのに、僕はなぜか彼女を守らなくちゃって思ってた。

ねえ。好きだよ。大好きだよ。

--

「ねえ。僕達、こうなってから随分になる。」
「そうね。」
「ねえ。結婚しない?僕、きみに可愛い子供を産んで欲しいんだ。」
「子供?」
「うん。」

彼女は、僕が背中から回した手をそっとふりほどく。

「ごめんね。子供なんて要らないわ。」
「だって。あの写真。保育園で見せた涙。ねえ。きみ、本当は子供好きなんだろう?」
「悪いけど。帰ってくれない?」
「嫌だ。帰らない。きみが本当の気持ちを言ってくれるまでは。」

彼女は溜め息をついて、何も言わない。

僕は、駄々っこみたいだ。

そうして、二人共無言のまま、夜が明けて。

「帰るよ。」
僕は、仕方なく立ち上がる。

--

僕は、今日は、指輪と花束を持って、彼女のところに行く。

ちゃんとプロポーズしてからだ。

この前は急ぎ過ぎたから、彼女だって気持ちの準備が出来てなかっただろうし。第一、子供の事まで言うなんて早過ぎた。

トントン。

僕がノックした途端、出て来たのは、恐ろしい顔の男のオオカミ。

「こいつか?」

「ええ。」
奥から、彼女の声。

その途端、僕の喉に走る痛み。

何が起こっているのだろう?

花束が足元に散る。指輪の箱が転がって行く。

熱いよ。ねえ。僕の首から流れ出るものは、何て熱い。

何か言おうとするけれど、僕の喉はヒューヒュー鳴って。

僕の手を、誰かがやさしく握っている。

「ねえ。あんたね、余計な事言い過ぎだったのよ。」
その声は、ひどく冷たい。

「あたしはね、いろんなことをやっとの事で置き去りにして来たの。もう、二度と戻りたくないの。それを、あんたが全部思い出させようとするから。だから、こうするしかなかったの。」

僕は答えられずに、うなずくだけ。

目の前がかすんでいく向こうで、彼女の指に僕が持って来た指輪がキラリと光ったから。だから、本当はちょっと嬉しくなって、目を閉じる。


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