セクサロイドは眠らない

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2002年07月08日(月) 「取り敢えず、眠って。明日のことは明日が教えてくれるから。」彼は、私のおでこに唇を付けて、それから、楽しそうに目を閉じて。

「もう、片付けはいいからさ。こっちにおいでよ。」
彼の声が背後から。

「うん。もうちょっと洗っちゃってからね。」
私は、彼の台所に溜まった食器を、一つ一つ丁寧に洗う。

彼の一人暮しの男性の部屋らしい乱雑さも、私にとっては好ましくて。それを細々と片付けたりするのが嬉しくてたまらない。

「終わった?」
彼が訊ねて、こちらに手を差し伸べる。

「うん。」
私は、その手を取って自分の肩に回すと、彼に寄りそう。

--

「ねえ。私達、この先どうなるのかな。」
私は、彼の胸で訊ねる。

「さあ。先の事は考えたことないんだよ。悪いけど。」
「このままじゃ、不安なんだもの。」

「今、きみが好きっていうだけじゃ駄目なの?」
彼は、そんな風に言って、私の髪を撫でる。

「ごめんね。時々、いろんな事が不安になるの。で、夜、眠れなくなるの。」
「そっか。」
「あなたは、違うのよね。」
「うん。どうだろう。先の事を考えてもしょうがないっていうのを学んだのはさあ。先輩と登山してた頃かな。」
「登山?」
「それでさ。まだ、初心者だった僕のために、簡単なルートに連れてってくれたんだよね。で、下りる途中にね。岩肌につかまってるところで、日が暮れて来たんで、ビバーグしようってことになったんだよ。」
「ビバーグって?」
「緊急露営。テントとか張らずに、夜を明かすことだよ。」
「それで?」
「雨が降り出したんだ。で、僕は、このまま雨に濡れて夜を過ごしたら、明日の朝には疲労してしまうんじゃないかって、心配で眠れなかったんだよ。でも、先輩は言うわけ。疲労するかどうかなんて、明日の朝にならないと誰にも分からないじゃないか。だったら寝て疲労回復したほうがいいってね。そうして、眠れない僕の横でスースー寝息がし始めるんだよね。」

私は、いつも、彼があまりにも健やかな寝息を立てて眠ってしまうことを思い出す。そんな時、私はいつも彼に置いてきぼりをくらったみたいで、少し寂しくなるのだった。

「取り敢えず、眠って。明日のことは明日が教えてくれるから。」
彼は、私のおでこに唇を付けて、それから、楽しそうに目を閉じて。

なんだかはぐらかされた気分にならないでもないけれど、私は、彼のそんな風に楽観的なところも、そんな風にいろんなことを教えてくれるところも、大好きで。

子供みたいに、つまらないことまで質問したりしてしまう。

そうして、私は、私自身がとても飢えていたことに気付かされる。

--

彼、というのは、夫の弟だ。

真面目な夫に比べると、数ヶ月働いては、ふらりと海外に行って戻ってくる。

「まったくしょうがないヤツでね。」
夫は、最初に弟の事を、そんな風に説明した。

夫の母親が亡くなった葬儀の席で、借り物のスーツを窮屈そうに着ている、大人になりそこなったように落ち着きない男性が夫の弟だと分かって、なんだか私は嬉しくなってしまったのを覚えている。

一方の夫は、真面目で穏やかな人だった。

結婚してこのかた、一度も私に対して声を荒げたことはない。

私は、満足していた筈なのだ。この結婚生活にも、夫にも。

なのに、彼が現われてから、それまでの満足がいかに脆いものか知らされた。

その頃には、もう、仕事が忙しい、と深夜にならなければ帰って来ない夫の目を盗んで、私は、夫の弟と会う。夫とは、会話も途絶えてしまい、何かあれば、紙に書いてやり取りする状態で。

私は、こんなことを続けていられないと分かっていても、もう、どうにもならなかった。

--

たとえば、夫と会う前に、彼に出会っていたら?

そんなことだって、何度となく考えたけれど。結局、出て来る答は、「夫と会っていなければ、彼とも会っていなかっただろう。」ということで。

それならば、せめて、彼と会えただけでも、運命を呪う気にはならない。

--

ある夜、いつになく早い時間に夫が帰宅して来て。

「早いのね。」
私は、なぜか、不安で胸がいっぱいになる。

「ああ。たまにはね。きみと話をしたほうがいいんじゃないかって思ってね。」
その声は、とんでもなく冷ややかで、私は、ますます怖くなる。

「何を?」
「そうだな。いろんなこと。昼間のきみ。誰と会って、何をしているか。」

私は、心臓をぎゅっと掴まれたように、声が出ない。

「悪いがね。調べさせてもらった。」
「どうして・・・?」
「なぜだろう。先日、母の残したもののことで、弟の所を訪ねたんだがね。そこで見たものが、なぜか僕には引っ掛かってね。何が問題なのか、最初は全然分からなかったんだよ。だけど、帰ってしばらくしてから気付いたんだ。」
「何を?」
「いやもう。本当に些細なことさ。洗ったグラスの並べ方とか。そんなものがね。きみを思い出させたんだよ。変だよなあ。そういうところですぐきみを連想しちゃうのが、夫婦なんだよなって、笑っちゃったよ。」

今更、どう弁解しても無理そうだ。夫が握っている封筒には、多分、それなりの場所に依頼して調べた結果が入っているのだろう。

私は、その後の事はあまり覚えていない。いつもは無口な夫が、興奮してしゃべり続けている。何か言えば、ますます激昂して。

知らなかった。

何も。

ずっと一緒に暮らしていて、何も分かってなかった。

こんな風に怒る人だったんだ。

裏で調べるような人だったんだ。

あざけるような笑い顔ができる人だったんだ。

もちろん、自分が悪い事は分かっていて。私は夫を嫌悪している自分に気付く。

「これから、これを持って、あいつのところに行くから。」
「それで・・・?どうするの?」
「それなりの責任を取ってもらう。」
「責任って?」
「あいつのバイト先に、バラしてやる。金ももらう。なんせ、人の妻を寝取ったんだからな。」
「やめて。」

私は、その時初めて、泣いて、彼にしがみつく。

「やめないよ。」
彼は、私の手を振り払って、部屋を出て行こうとする。

「ねえ。一つ教えてよ。」
私は、夫に向かって叫ぶ。
「ねえ。私のこと愛してるから、怒るの?」

「愛?」
夫は、鼻を鳴らして、笑う。
「愛なんかじゃないよ。怒り、かな。この怒りについては、誰かが責任を取るべきだよ。正確に言えば、きみとあいつと、二人でね。」

そう言って、夫は出て行く。

私は、残されて、泣く。

ただ、一人残された時間。夫と彼の会話を考えても、どうにもならない。

私達は、どうなるんだろう。私達三人は。

ふと、緊急露営、という言葉が頭に浮かぶ。

何も考えずに眠って、明日が運んでくる結論を待てば。

そう思っても、夜は果てしなく長い。


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