セクサロイドは眠らない

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2002年06月05日(水) そうして、抱き締められて。そのまま私の服の裾をたくし上げて来た男の左手を拒めなかった時。

「いらっしゃい。」
私は、入って来た客を見て、驚く。

「あら、珍しい。」
「久しぶり。」
「何年ぶりかしらね。」
「うん。十年ぶりぐらいかな。」

そう。十年前にここを去って行った、あなた。

「さっき、お客さんが帰ったばかりでね。もうしまおうかと思ってたの。」
「いいのかな。」
「ええ。あなたながら、歓迎よ。ちょっと待って。表はもう、閉めておくから。」

私は、慌てて男のためにグラスと灰皿を並べて。

「あまりゆっくりはできないんだ。」
「わかってます。」
「相変わらず、綺麗だ。」
「うまいこと言って。十年前に捨てた女を、今更誉めるなんてひどい人ねえ。」
「いや。正直、この店も、もうないかと思った。」
「ちゃんと続けて来れたわよ。」

そう。あなたが、もう一度ここに来てくれることを、私は、心のどこかで願っていた。

「あなたは?」
「僕か。僕は、単身赴任を終えてね。今日、あちらの片づけを全部終えて、戻って来たところだ。」
「じゃ、そちらの包みは。」
「そう。娘へのおみやげだ。」
「いいパパね。」
「正直言って、娘ももう、小学校の四年だ。僕にはさっぱり分からんよ。どんなものを買って帰ってやればいいのかもね。今更お人形もないだろうに。」
「何買ったの?」
「同僚に頼んで、適当に選んでもらった。」

その時、店の電話が鳴り出す。

私は、出ない。

「出なくていいのか?」
「ええ。きっと、あの人だわ。」
「旦那か。」
「結構おじいちゃんでね。だから、せっかちで。店が終わったら飛んで行かないと、この調子なのよ。」
「じゃ、出ろよ。」
「いいのよ。お客さん送って行ってたとか、適当に良い訳するから。」

電話には出たくない気分だった。

明日、どう言い繕おう、と思いながら、私はもうそこから動かないで、目の前の男を眺めていたかった。

あの頃と、私、全然変わっていない。

本当に欲しい男を前にすると、未来への計算なんかできなくなってしまう。

--

あの頃はまだ、私は、結婚もしていて。ただし、その頃の結婚相手も、相当な高齢だったので、私は、好きにさせてもらっていた。こういう仕事をしていれば、男の人とはずみで寝ることもあったけれど、そんなことをとやかく言う人ではなかった。私もわきまえていて、男に本気で惚れて夫の顔を潰すような真似はすまいと、思っていた。男女の関係は、自分の欲しいものだけ分かっていれば、大概はうまく行くものなのだ。

そう。

目の前にいる男に会うまでは、私は、男につまづいたことはなかった。世を渡って行く時々、利用していればいいものでしかなかった。

男にも、妻子がいた。

「今日、子供が産まれてさあ。」
と、一人で嬉しそうに祝杯をあげていた男のことを、好もしいと思ったけれど、最初は格別な感慨も持たなかった。

それなのに、男はいつまでも飲み続けて。べろべろになってしまって。

もう、客は男だけになって。

「お客さん、もうやめたほうがいいわ。タクシー呼んであげるから。」
って、受話器を取り上げた手を、男が抑えたから。

そうして、抱き締められて。そのまま私の服の裾をたくし上げて来た男の左手を拒めなかった時。

なぜか、私にも思いもよらない場所に火がついてしまったのだった。

その時から狂ったように男の後を追い掛ける日々が始まった。自分でも理由の分からない激情のようなものが、私を支配していた。

--

今度は、男の携帯が鳴っている。

男は出ようとしない。

「出ないの?」
「ああ。」
「奥さんじゃないの?」
「帰りは、今夜になるか明日になるか、分からないと言ってあるから。」
「起きて待ってらっしゃるわよ。」
「いや。そんな女じゃないよ。」
「でも、帰らないと。」
「ああ。そうだな。」

私は、口ではそう言いながらも、男の空のグラスを、また、満たして。

男がそれに口をつけるのを見て、安堵する。

もう一杯、空けるまでここにいてくれるでしょう?

「あの頃の俺、家庭に取り込まれるのが怖かったんだよな。」
「知ってるわ。」
「お前に甘えてて。」

逃げている男は、いつも激しかった。崖っぷちの欲望は、私をも巻き込んで、熱に浮かされたようだった。

老いた夫の顔を潰さないのが、せめてもの礼儀だったのに、そんなことも守れなくなって、私達は、家庭をほっぽりだして、朝まで何度も抱き合ったものだった。

そんな時、男に東京行きの辞令が下りたのだった。

「連れて行ってもらえるかと思ってたのよ。」
「すまない。」
「黙って行ってしまったのよね。」
「逃げたかった。」

男に捨てられ、結局、この店を手切れに、夫からも離縁を申し渡され、当時は死のうとさえ思ったものだった。

「なんで今頃、来たりするのよ。」
私は、恨みがましい声を出してみせる。

また、携帯が鳴る。

男は、出ない。

「なんでかな。また、きみの顔を見たくなった。」

あの時と、全く同じ感情が私を襲う。

あの頃は、いつも、男が、ふと我に返って「帰らなくては。」と言い出すのに怯えて、一分でも一秒でも、長く抱き合っていたかった。

あの時と同じ。

電話に出ないで。

空のグラスを置いて、立ち上がらないで。

私は、祈る。

--

ふと気付くと、店の外が騒がしい。

ガラスの割れる音が、人々の声が。聞こえてくる。

「どうしたのかしら?見てくるわ。」
その時、消防車のサイレンの音が聞こえて来る。

「行くな。」
カウンターを出て、外を見て来ようとする私に、男は言う。

だって、あなた。

気付けば、店の中にも煙が流れ込んで来て。

店の中の温度が上がっている。

「今夜中に帰れない理由ができた。」
男は、空のグラスを差し出してくる。

私は、黙ってうなずいて、受け取ったグラスを満たす。

本当に。もう、これで怯えなくて済む。今夜このまま、二人でずっといられるのね。


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