セクサロイドは眠らない

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2002年06月01日(土) 彼女がすれ違った時の彼女の髪の毛の香りを思い出して、僕は欲情する。たまらず、目の前の妻に手を掛けた。

僕が彼女を見たのは、その時が初めてだった。

妻と二人で歩いていた時だった。

その完璧な彼女は、体にピッタリとした服を着ていたため、体の線があらわになっていて。多分、男なら誰でも、目を留めずにはいられない。豊かな胸は、もうしばらくすれば重力に負けてしまうかもしれないが、今のところ、重力に対して威厳を保ち続けていたし、ふくらはぎから足首に掛けてのラインは完璧だった。

そうして何より、歩き方が、誘っていた。

僕は、多分、丸々一分間、彼女が向かいから歩いて来て、僕達のわきをすれ違って通り過ぎるまで、そこに立ち尽くしていたようだ。

彼女が完全に通り過ぎたあと、妻が肘で僕をつついた。僕はそこで我に帰った。

「あなた、今やってたこと、自分で分かってる?」
「え?」
「え、じゃないでしょう。今、あなた、私にものすごく失礼なことをしたのよ。もちろん、あの女性にも失礼だったかもしれないけど、そんなことどうだっていいわ。あなた、私という女性に対して、ひどい仕打ちをしたのよ。」
「ひどいって。ちょっと見惚れてただけじゃないか。」
「だから、最悪なのよ。」
「男なら誰だって、彼女に見惚れるって。」
「誰だって?」
「ああ。」
「なんて・・・、ひどい・・・。」

彼女は、その場で顔を覆って泣き始めたから、僕は訳が分からなくなって、とにかく、彼女を家に連れて戻り、あれこれと弁解したり、もちろんきみのほうがずっと魅力的だなどと言ったりもした。

信じて欲しいが、僕は、平凡な男だ。平凡な妻と二人で、小さな一軒家に住み、ローンを払って行くのがやっとの、ごく平凡な男だ。あんな夢のような女とは、まったく縁のない生活を送っている。

夢のような・・・。

そうだ、夢のようだった。

突然、彼女がすれ違った時の彼女の髪の毛の香りを思い出して、僕は欲情する。たまらず、目の前の妻に手を掛けた。

「ちょっと、何するのよっ。」
妻は、僕の手を払いのけた。

「あんたが今考えてることぐらい、分かるんだから。あの女のこと、考えてたでしょう?あの女のこと考えて、ムラムラしたでしょう?」

まったく、返す言葉もない。僕はうなだれてしまう。何で分かるんだろう?

ともかく、妻はすっかり怒ってしまい、寝室を別にしましょうと言い出した。悪いのは、僕だ。よく分からないが、多分、僕が悪いのだ。妻の言う通り、僕は、寝室を分けた。だが、それでも妻の機嫌は結局直らず、今度は、離婚すると言い出した。

「離婚?なんで?」
「ともかく、駄目なのよ。もう、あなたとはやっていけない。」

彼女は、一旦言い出したら、もう、誰の言うことにも耳を貸さない女だ。僕は、しかたなく、離婚に同意した。

彼女は、さっさと荷物をまとめて出て行った。そこには何の迷いもないようで。僕は、その事実に驚いた。僕らは、五年間、夫婦として一緒に暮らした。それが、彼女の中に何も残していないようで、驚愕したのだ。

彼女は、何も残さなかった。

唯一、ベランダの鉢植えを忘れて行ってしまったので、それは、僕が忘れず水をやった。だが、どう手入れを間違えたのか、ある日、枯れてしまった。そういうものだ。いくら手を掛けたって、駄目になる時は駄目になる。

--

時折、僕は妻との離婚の原因を考えてみるが、どうしても理由が分からなくて、考えるのをやめてしまう。それ以上考えていると、どうしても理由を見つけないといけない気分から、僕は、自分を責め始めるだろう。

妻がいるくせに他の女に欲情する自分が悪いとか。

平凡な暮らししかさせてやれなかった自分が悪いとか。

そんなことが理由として成立するのは間違っていることぐらい、僕にも分かる。

だけど、ああ。人は、理由を求めて生きる動物だ。理由なしに何かを納得するのはひどく難しいのだ。ということを、三十過ぎの男は、徹底的に知るはめになったというわけだ。

--

僕は、彼女などいなかったものとして生活を新たにスタートさせるしか、その鬱々とした気分を振り払う術はないと気付いた。

だから、貯金をはたいて、家の外壁を塗り替え、壁紙を張り替えた。自分の髪を、少し違う色に染めて、服装にも少しお金を掛けてみた。

同僚からは、
「なんか雰囲気変わったな。」
と、からかわれた。

不思議な事に女の子からモテ始めた。

もちろん、モテるのは、一番の目的じゃなかったが、悪い気分じゃなかった。女の子が寄ってくれば、寝るが、僕という人間を知ると、みんな僕のもとを去って行った。なんでだろう。多分、僕が、「僕ときみの間には何か理由があって抱き合っている」ということを、まるで信じなくなってしまったからだ。

そうして、僕は、薄っぺらな毎日の中を、上手く渡って行くことについて進化し続ける。こだわりさえ捨てれば、人は案外と世の中の簡単にいろんな法則を見つけられるのだ。

そうして。

毎日。

たまに、酒を飲み過ぎて泣くこともあるが、誰のために涙を流しているのか、もはや分からない。僕のため。妻のため。一度だけ妻の流産で失った生まれてくる筈だった子供のため?

--

ある日、僕は息を飲む。

向こうから歩いてくるのは、僕と妻の離婚のきっかけになった、あの女性だ。完璧な歩き方をものにしている、その美しい女。

「あの。」
僕は、思い切って声を掛ける。

「どこかでお会いしたかしら?」
彼女は首をかしげる。

「ええ。去年の今頃、この道で。」
「まあ。そう。」
「すみません。唐突だとは思うのだけど、今夜、付き合ってくれませんか?一晩だけ。あなたと語り合いたい。」

普通の男がこんなこと持ちかけたら、きっと気味が悪い男だと思われるだろう。

だが、もう、僕は必死だった。

「あなたがきっかけで、僕ら夫婦は別れたんです。」
もちろん、そんなこと言いがかりだというのも、よく分かっていて。

「わたしのせいで?」
彼女はとても悲しそうな目をして。

「いいわよ。付き合うわ。」
と、あきらめたようにうなずいた。

僕は、胸が痛んだ。これだけ美しい女だもの。今までだって、不当な言いがかりをつけられて苦しむことは多かったに違いない。なんで僕らの離婚まで持ち出したのだろう。だが、その時は、僕は僕のことしか考えていなかった。

--

僕らは、その夜、飲み過ぎた。

もちろん、僕と妻の離婚のことには一切触れなかった。だって、彼女にはまるで関係のない事だったから。

僕は、ただ、彼女の美しさを称賛し、ベッドまで運んだ。

そうして、その美しい体を抱き締めて、体中に口づけた。

僕は、夢の女を前に緊張のあまりうまく自分を勃たせることができなかった。彼女は、そっと遠慮がちに、それを口に含むと、僕がリラックスして、続きをすることができるようになるまで、舌を動かし続けてくれた。

全てが終わって、僕は泣いていた。

「理由が知りたかっただけなんだ。」
僕は、泣きじゃくっていた。ずっと一年間抱えていたものを、吐き出してしまっていた。

「もしかしたら。」
彼女は口を開く。

「え?」
「もしかしたら、彼女はずっと離婚を考えていて、ただ、あなたを原因に離婚する理由を探していただけだったのかもしれないわね。そこに丁度私が通りがかったってわけ。」
「そんな風に考えたことはなかった。」
「逆転させれば、そんなに理由探しは難しいわけじゃないかもしれないわよ。」
「そうかな。」
「あるいは。あなたは、私と寝るために奥さんと別れた。それでいいんじゃない?」

そうかもしれない。

簡単なことだった。

「女の体は、男が使ってはいけないほど神聖なものじゃないわ−恋愛で失敗した体なら、なおさらよ。
そんなことを悲しい女に言わせたのは、チャンドラーだったかしらね。」
彼女の声は、冷え冷えとして。

僕は、心の中で謝りながら、冷えた体を抱き締める。

結局、理由を探しているふりをして、誰かのぬくもりを待っていただけだった。


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