セクサロイドは眠らない

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2002年05月27日(月) 甘い記憶。どうにかなってしまおうとは思わなかった。その瞬間を幾度も思い返して、その後の日々、生きていければ良かった。

夫は、定年間際なのに、遅くまで働く。

「無理なさらないで。あまり年寄りが長く現場にいると、若い人達に嫌がられるわよ。」
と、上着を私ながら言う私に、夫は笑って。

「そうだな。」
と、答えて。

だけど、一分一秒でも長く現場にしがみついていたいのだと。夫のことは誰よりもよく分かっているから。

私は、それ以上言わずに、夫を送り出す。

庭に出て、今日を盛りに咲く花を、幾本かキッチン用にと見つくろう。

そうして、午前中は、太陽の光がまぶしいくらいに入ってくるキッチンで、私は、日記帳を開く。最近、昔のことを思い出すような記述が増えて来ているのは分かっているけれど。私は、日記に過ぎた事を書くのが楽しくてしようがない。

私の背後で、キッチンの窓を叩く音がする。

「どなた?」
私は、老眼鏡を外して、窓の外を見る。

「ごめんなさい。急に。あんまり素敵なお花だったので。」
「あら。いいのよ。」

そこには、若い娘さん。と言っても、三十台?しっとりと落ちついた風情もあって。私にもし娘がいたら、こんな感じだと嬉しいという風な、清潔な服装。

「ねえ。お入りにならない?」
「え?いいんですか?」
「ええ。どうせ、暇だし。お花、好きなんでしょう?話し相手になってくださる?」
「私で良ければ。」

その娘さんは、おずおずと玄関から入り直してくる。

「ごめんなさいね。庭のお花があんまり綺麗で。それに、手入れも行き届いてて。」
「そう言ってくださるかたがいるのって、本当に嬉しい。」
「お独りですか?」
「いえ。夫と。息子は、遠くで就職しててね。たまにしか帰って来ないのよ。」
「そうですか。でも、本当に素晴らしいですわ。お庭も。おうちも。」
「ほほ。私って、ね。他に能がないんですよ。馬鹿みたいに家を守って、ね。」
「そうやっていられるのが一番幸せですわ。」
「あなたは?ご結婚は?」
「してます。」
「そう。」
「さっき、ごめんなさい。私、普段は落ち着いているつもりなのに、何かに胸がときめくと、時折、自分でもびっくりするような行動に出ることがあって。」
「あら。私もそうなのよ。」
「ねえ。お独りで?随分と長いこと、このおうちにいらしたでしょう?」
「なあに?突然に。」

娘さんは、なぜか泣き出しそうな顔になる。

「どうしたのかしら?何か・・・。悩みでもあったら。ねえ。私に教えてちょうだいな。私だったら、ほら、他人だから、誰かに言いふらしたりしないし。」
「分からないんです。時々、すごく苦しくて。」
「どんな風に?」

いやだ。私、誰かの悩みを聞くのに、ちょっと好奇心剥き出しという風ではないかしら。

「うち、ね。夫が。滅多に帰って来なくて。仕事と結婚してるみたいなものなんです。」
「あらそうなの。よく分かるわ。そういう人と結婚しちゃうと、相手がいつ帰ってくるかなんて、全然当てにしなくなるのよねえ。」
「私、寂しいのだと思うけれど。夫の後輩の男性が、先日、夫に頼まれてうちに着替えを取りに来てくださったことがあって。」
「ええ、ええ。」
「それで。何と言うか。寂しかったんだと思いますわ。手を・・・。握られて。」
「あら。」
「それが、びっくりするくらい。なんだか、泣きたくなるくらい。私の欲しかったものだって分かって。手を振り切ることができなくて。」
「ねえ。あなた、それは駄目よ。分かってるかしら?ご主人はあなたのために一生懸命働いてるのよ。」
「そうでしょうか?夫は、夫のために、会社のために働いてるんじゃないかしら。」
「それは間違いというもの。近頃の人は、すぐ、愛だの恋だのがなきゃ、生きていけないものだって勘違いするけれど。」

私は、勢い込んでまくしたてていたけれど、娘さんの涙を見て、なぜか、懐かしいような痛みを思い出して、それ以上何も言えなくなる。

「ごめんなさい。帰ります。」
「あら。まあ。また、来てちょうだい。」
「今日はありがとうございました。知らない人の家に押し掛けて、泣いたりなんかして。」
「いいのよ。」

娘さんは、慌てて家を飛び出して行く。

まずい事を言ってしまったのでは、という後悔が押し寄せてくるが、その考えを振り払い、老眼鏡を掛けて、日記帳に向かう。日記は、いい。何か書いていると、気持ちが整理できて、落ち着いて来る。

私は、娘さんのこと。娘さんの恋のこと。そんなことを綴ってみる。

「若い人は、気持ちに流されてすぐに」
そこまで書き掛けて、自分の昔を思い出す。

私は、誰かにお説教めいた事を言うほどに、いつからそんなに偉くなったのかしら。

なぜか気分が沈むのを感じて日記帳を閉じる。

--

次の日。

娘さんが、訪ねて来てくれた。

「もう来てくれないかと。」
「いいえ。昨日は、私のほうが悪かったんです。」
「いいえ。私よ。悪かったのは。つい、お説教めいたことを言ってしまって。」
「これ。」
「なあに?」
「スコーンです。私が焼いたの。昨日出してくださったお紅茶に合うと思って。」
「まあ、ありがとう。いらっしゃいな。一緒に戴きましょう。」

私は、自家製のジャムを取り出して。

「おいしいですわ。」
「あら。ありがとう。主人は全然誉めてくれないのよ。でも、あなたのスコーンがおいしいのね。とっても良く合うわ。」

私は、紅茶を煎れながら、言う。
「ね。昨日のお話。続きを教えてくださらない?」
「え?」
「お願い。聞きたいの。手を握られて。それからどうしたの?」
「それだけなんです。」
「そう。」
「本当に、それだけ。彼も、気まぐれだったのかもしれないし。」
「そうかしら。職場の先輩の奥さんの手を握るだなんて、その人も相当勇気が要ったでしょうに。」
「そう・・・。でしょうか?」
「ええ。ええ。」
「ねえ。おばさまは?ご主人を裏切ったことは?」
「ないわ。」
「一度も?」
「ええ・・・。多分。」

どうだったかしら。

それでも、私は、この娘さんの胸の痛みが。なぜか、とても良く分かる。

このスコーンの味。誰かと向かい合って。こんな風に。握られた手は、燃えるように熱くて。

それだけで良かった。ただ、その時間。甘い記憶。どうにかなってしまおうとは思わなかった。その瞬間を幾度も思い返して、その後の日々、生きていければ良かった。

気が付くと、娘さんはいなくなっていた。

スコーンが綺麗になくなるほど、私達は何かを夢中で話していたようだ。明日、もっと、聞いてみよう。娘さんの心の内。どうして、そんな柔らかな暖かいものを、私、最初の時、いきなり頭ごなしに否定しちゃったのかしら。

ジャムを片付けながら、そう思う。

--

久々に休みが取れたから、と、息子が遊びに来てくれた。

私も、今日ばかりは仕事を休んで。

「ねえ。父さん。」
「なんだ?」
「母さんのことだけど。独り言が激しいだろう?ちょっとヤバいんじゃない?」
「ああ。そのことか。」

実を言うと、私も心配していたのだ。まるで、少女のように興奮したり、それから少し沈み込んだり。私が放っておいたのがいけないのか。

「だが、日常のことはしっかりしてるから。」
「そう?大丈夫?何かあったら連絡くれよな。」
「分かってるって。実はな。少し早いが、来月で仕事を辞めようと思うんだ。」

実際、妻は随分と、自分を殺して私に合わせてくれていたから。

「ほんと?」
「ああ。母さんのそばにいてやろうと思う。」
「なら、安心だ。」

庭で花を摘む妻は、本当に、少女のように微笑んでいて。

「なあ、おまえ。でも、見てごらん。母さんがあんな風に笑ったところ、見たことがあるか?」
「うん。」
「そうか。私は知らなかった。」

本当に。

何も、妻のことを知らなかった。

今からでも、遅くはないだろうか。その妻の微笑みに恋しても。


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