セクサロイドは眠らない

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2002年05月10日(金) 僕の腕を噛むように吸って。「この痣が消えないうちに、また来てちょうだい。」と、少女のように懇願した。

彼女は、裕福な家庭の美しい人妻だった。

僕とのことは遊びだったのだ。

だが、そのことに気付いた時はもう遅かった。僕は、彼女の体に溺れ、心まで我がものにしたいと切望した。一方、彼女にとっては一時の炎が静まると、僕の過剰な求愛は迷惑なものでしかなかった。

「次はいつ会える?」
僕がしつこく出すメールに、彼女からの返事はほとんど来ない。

しびれを切らして、昼間、彼女が家に一人でいる時間を見計らって電話しても、彼女は慌てて、
「後でこっちから連絡するわ。」
と言って、いつも電話を切ってしまう。

ああ。もう駄目なのだ。僕がどうやって誠意を見せたところで、彼女の心は少しずつ僕から離れて行く。

それでも、激しく求め合った日はあった。

初めて抱き合った日。

本当に飢えていたように僕の体に乗って来た彼女は、僕の腕を噛むように吸って。「この痣が消えないうちに、また来てちょうだい。」と、少女のように懇願した。

だから、信じた。彼女の何もかもを。

それなのに、僕だけが終わらない愛を信じていて。彼女は一時の情事を終えると、僕を遠避けようとし始めた。

僕は絶望した。髭も剃らず、飲めない酒を飲んでみたりした。彼女の家の周りをうろついたりもした。その時は後で、彼女から激しい怒りの電話を受け取ったが、僕はそんな時ですら、彼女の声が聞けただけで嬉しかった。

僕に残された道は、それでももう、死しかなかった。

このまま彼女への想いの奴隷になっていたら、いつしか、彼女との美しい思い出さえ、全部駄目にしてしまうから。

さようなら。

一つだけ、祈る。

今度生まれて来る時は犬にしてください。また再び、同じ世界で彼女を恋する男にならずに済むように。

--

僕は、望み通り、犬に生まれ変わった。

僕は、その、平凡だけど暖かい家庭の一人息子の遊び相手としてもらわれて来たのだ。その家の人は、みんな、僕を可愛がってくれて。

もちろん、犬には、犬なりに大変な社会がある。僕は、それを一つ一つ覚えて行くのに必死だった。息子の友達が背中に乗ったり、耳やしっぽを引っ張ったりするのにもじっと耐えることを覚えた。どんなに怖くても、やたらめったら吠えないように。けれど、不審な人物が家に入って来たら大声で知らせるように。そんなことをちゃんとこなせば、家の人は犬のことだって大事にしてくれる。

僕は、幸福だった。

結婚もした。

近所の家の愛らしい瞳の犬が、僕のお嫁さんになってくれた。

たくさんの子供も生まれた。

僕は、本当に幸福だった。

--

ちょうど家の人が留守の時のこと。

家の前に大きな車が止まった。そうして、車から降りて来た人間が、まっすぐ僕の飼われている家の中に入って来た時。

僕は、立ち上がり吠え立てる用意をして。

それから、はっとして、その人を見上げる。

「こんなところにいたのね。」
その、美しい人は、相変わらず僕の胸を締め付ける微笑をたたえて。

「ねえ。随分探したのよ。あなた。いえ。亡くなったのは知ってたの。でも、きっと私に会うために、戻ってくるって。なぜかしらね。そんな風に思えて。ずっと探してたの。」
「・・・。」
「ねえ。一緒に来ない?うちに。こんなみすぼらしい小屋じゃなくて、もっと素敵なおうちを用意してあげるわ。なんなら、私のベッドルームで寝起きしてもいいの。ねえ。私、馬鹿だったわ。主人が帰って来なくてひどく孤独だったの。だけど、あなたがいなくなって、もっと孤独になってしまったの。」

僕は、振り返らなかったが、背後で妻が心配そうに見ているのを感じていた。

「ねえ。犬になってしまうほどに悲しかったあなたを、もう一生離さないから。」
彼女が目尻を押さえるハンカチから、彼女が愛用している香水の、なつかしい香りが漂う。

僕は、随分と長く彼女を見つめて。

それでも、ようやく彼女から目を離すと、僕はくるりと背中を向けて、妻の元に走って行った。

「それが答えなのね?」
彼女が叫ぶ。

僕は、振り向かない。

長い長い時間の後。

背後で、車のドアが閉まり、走り去る音がした。

--

夜。

寄り添うように寝そべっている妻に、僕は言う。
「ねえ。男って本当に馬鹿だよね。」

妻は、分かっているわよ、というように微笑んで、それから僕の腹に顔をつけて、目を閉じる。

ねえ。本当に馬鹿なんだよ。僕、自分が犬じゃなかったら、きっと彼女の手を取っているところだったんだよ。

犬で良かったよ。本当に。

僕は、眠れないまま、小屋の屋根を打つ雨音をいつまでも聞いている。


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