セクサロイドは眠らない

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2002年05月08日(水) 「ねえ。ダンナ以外とこんなことするの、初めて?」さっきまでの優しかった彼は、急に意地悪く耳元で私を攻め立てる。

ある春の午後。

友人達とランチを一緒にした後、仕事に戻るという友人達と別れて、専業主婦の私は地下鉄に乗るために駅に向かった。

その路地を入ったところに、占い師はいた。

なんとなく。ふと、「見てもらおう」と思った。

占い師は、私の手をじっと見ると、それからおもむろに言った。
「この先、行き当たったところを右に曲がったら、今までと同じ穏やかな生活が、左に曲がったら、波乱万丈な人生が待っているだろう。どちらを選ぶかはあんた次第だ。」
「それだけ?」

占い師は黙ってうなずく。

私は歩きながら考える。普通に帰るとするならば右だけど。私は今の人生に満足しているから。サラリーマンだが、経済力のある夫。お金の管理も何もかも任せきりで、私は気楽に遊び歩いている。やさしい夫。なんの不足もない。

けれど、私の足は、自然と左に曲がるほうを選ぶ。

夕飯の支度を始める時間にはまだ早いから、と心の中で言い訳をしながら。

どんっ。

「きゃっ。ごめんなさい。」
私は、曲がった途端、その青年にぶつかって派手にしりもちをついた。

「大丈夫?」
「ええ。私がよそ見してたから。」

彼は手を差し伸べて私を立たせてくれた。

「ありがとう。」
「ね。お茶でも飲まない?急いでる?」
「え?」

これ、ナンパ?

「急いでるならいいんだけど。」
その顔は妙に真剣で、私は思わずうなずく。

「良かった。この先にいい感じのお店があるから、そこに行こう。」
「ええ。」

彼との会話は楽しかった。夫以外の異性と何時間もこんな風にしゃべったのは、結婚以来初めてだった。

「え?人妻?そうかあ。そうは見えなかったなあ。ショックだな。」
彼が大袈裟に嘆いて見せるので、私は笑いながら、そっとテーブルの下で薬指の指輪を外した。

それから、春の街を二人で歩いた。

気が付いた時はすっかり夕暮れで。

帰らなくちゃ。

そう言おうとしたのに、彼ともう少し一緒にいたくて。

私は、夫に電話を掛けた。
「久しぶりにこっちに帰って来てる友達がいるから、お夕飯一緒にするわね。」
「いいよ。ゆっくりしてきなさい。僕の夕飯は気にしなくていいから。」
「ありがとう。」

時間が作れたよ、と笑顔で知らせると、彼もにっこり笑って。

「行くだろう?」
と、彼が自然に私の肩に手を回すから、私は今更戻れない道を歩き始める。

「ねえ。ダンナ以外とこんなことするの、初めて?」
さっきまでの優しかった彼は、急に意地悪く耳元で私を攻め立てる。

「・・・。」
「駄目だよ。ちゃんと言わなくちゃ。」
「ええ。ええ。初めてよ。」

その、夫から教えられたことと似ても似つかない行為は、私に驚きと興奮を与え続ける。

--

「もう帰らないといけないんだろう?」
ベッドでぐったりしている私に冷静に言うと、彼はさっさと服を着始める。

「次は?」
「え?」
「次は、いつ?」
「携帯の番号教えとくからさ。電話してよ。」
彼は、そう言い残して先に出てしまった。

彼は、一夜だけの遊びを求めていたのだろうが、私は思いがけず覗き見た世界が忘れられず、男を半狂乱で追い回す。何度かに一度しか出ない電話。なのに、会ってホテルに行くまでは、最初の、あの優しい笑顔を、はにかんだ微笑みを見せて、私を困惑させる。

--

「どういうことだ?」
夫が、ネクタイを緩めながら、私の前に突き付けた写真には、私と彼が写っていた。

「どうしてこれを?」
「調べさせてもらった。きみが最近、少し様子がおかしいのでね。」
「好きなの。あの人が。」
「なんだって?」
「一緒にいたいの。」
「中学生じゃあるまいし。」

そうよね。変よね。優しい夫がいて。なのに私。

「彼と離れられないの。」
「いい加減にしろよ。」
その時の夫の顔は、ものすごい形相で、私は一瞬殴られるんじゃないかと思った。夫は、振り上げたこぶしを壁に打ちつけると、
「出て行け。」
と言った。

「待って。ねえ。話を聞いて。」
「何を話すというんだ?きみの身勝手な言い訳か?」
「違うの。ねえ。違うの。」
「出て行け。汚いヤツめ。」

私は身をこわばらせて、そこに立ちすくむ。そこにいたのは、私の知らない夫だった。

どこにも行く場所などない。

--

私と青年の情事は、夫に発覚したことであっけなく終わってしまった。

だが結局、幾夜かの話し合いを経て、私達は別れることにした。

夫は、最近では随分と気持ちが落ち着いて来たようで、何度も「やりなおそう。」と言ってくれた。

けれども、私は見てしまった。夫の顔に浮かんだ夜叉の表情を。

あの顔は忘れられない。

--

「どうしても出て行くのか?」
「ええ。ごめんなさい。」
「元気で。」
「あなたも。」

私の心は深い悲しみで一杯になる。

あの時、もし、右の道を選んでいたら、どうなったの?私はいつかの占い師を探して歩く。

いた。

「この先、行き当たったところを右に曲がったら、今までと同じ穏やかな生活が、左に曲がったら、波乱万丈な人生が待っているだろう。どちらを選ぶかはあんた次第だ。」
私の耳に、女子高生を相手にそうつぶやく占い師の声が響いて来た。

なんだ。誰にでも同じことを言っていたのね。それとも、あの青年とグルだったのかしら。

そんなことも、本当は、もうどうでも。今から右に曲がったところで、知らなかった昔には戻れない。


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