セクサロイドは眠らない

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2002年04月18日(木) 僕が触れただけで熱い吐息を漏らす。彼女の艶っぽい声が、そこに横たわる長い歳月を感じさせて、僕は嫉妬する。

僕が小学生の頃、母が亡くなった。

それから、父は浴びるように酒を飲むようになった。そうして、僕のことをかまわなくなった。

僕のことを心配して時折立ち寄ってくれる叔母は、僕に向かって、
「思い出が人を駄目にすることもあるからね。こうやって生きてる人間がどう逆立ちしたって、かなわない。思い出に取り憑かれた人間には、勝ち目はないってことさ。」
と、繰り返し言った。その口調は、妙に乾いた感じで、叔母自身の苦労がにじみ出ていた。

それでも僕は、父に振り向いて欲しいと、あれこれと父の気を引くようなことをしてみた。そうして、それは全部無駄だと分かったのは、僕が中学生になった頃だった。思い出に勝ち目はない。僕は、拒絶され、無力感を感じただけだった。

--

「久しぶりだね。」
大学時代の友人と久しぶりにあった時、僕はそう声を掛けて来た彼女が誰か一瞬分からなかった。

「すげ。きれいになっちゃって、誰か分からなかった。」
「うまいのねえ。」
「だってさあ。」
僕は、照れまくって、つい、飲み過ぎる。

「結婚してるんだ?」
僕は、彼女の薬指を見て気付く。

「ええ。まあ。一応ね。」
「子供は?」
「小学校一年と四歳。」
「へえ。信じられないなあ。あのエツコがねえ。」
「やだ。どうして?」
「なんだかさあ。ちょっと変わってたから、普通の奥さんとかやってるの想像つかないよ。」
「やあねえ。」

彼女は、そっと指輪をした手を隠すように引っ込めると、僕のグラスを満たす。

話がはずんで、もう、ヘロヘロになって、いつお開きになったかも分からなくて、僕とエツコは、二人で夜道を手を繋いで歩いている。

「いいの?人妻がこんなに遅くなって。」
「今日ぐらい、大丈夫だよ。それよかさあ、そっちは結婚してるの?」
「僕?僕は、失敗したんだよ。結婚に。」
「うそ。なんで?」
「なんでかなあ。頑張ったんだけどね。彼女、出て行っちゃった。もう、一旦駄目になると、どうやったってうまくいかなくなっちゃって。」
「あの時の人でしょう?一つ年上の。」
「うん。そう。」

僕は、自分の結婚が失敗した話なんかどうでも良かった。彼女の髪が柔らかく揺れて僕の頬をくすぐることとか、桜色の口紅が形良く動くこととか、そんなことばかりに気を取られていた。

「あの時さあ、彼女がいるからって言われて、私、あなたにフラれたんだよね。」
「え?そうだっけ?」
「そうよ。あなた達有名だったもの。」
「そうかなあ。覚えてない。」
「うらやましかったのに。」
「もう、よそうよ。彼女の話はしたくない。」
「ごめんなさい。」

彼女が、軽く頭を下げて、本当に申し訳なさそうな顔をしてうつむくから、僕は、その顔をこちらに向けたくて、彼女の顎をそっと押し上げて口づける。

「やだ。待ってよ。」
彼女は、立ち止まる。

「ごめん。」
「ううん・・・。」

それから、僕らは無言で歩いた。

空車のタクシーを見つけて手を上げた時、彼女は言った。
「今頃になって、遅いよ。馬鹿。」

僕は、彼女の手をぎゅっと握った。僕にとってはちっとも遅くはなかったから。彼女が何でそんなに怒っていたのかも、僕は分かってないのだった。

--

彼女の携帯の番号は、あの日集まった仲間に聞いてすぐ分かった。

「時間ないの。」
会うなり、彼女は言う。

「じゃあ、急ごう。」
僕らは、大して言葉を必要としなかった。

僕達は遅れを取り戻すようにせっかちに抱き合う。

彼女はすっかり大人になっていて、僕が触れただけで熱い吐息を漏らす。

彼女の艶っぽい声が、そこに横たわる長い歳月を感じさせて、僕は嫉妬する。

--

「ねえ。明日、会いたいよ。」
僕は、電話口で無理を言う。

「明日は、駄目よ。幼稚園の茶話会があるの。」
「明後日は?」
「小学校の参観日。」
「忙しいんだね。」
「春は忙しいの。」

四月になって、彼女はいつも忙しい。

僕は、焦り始める。

無理を言って、彼女を呼び出した。

「無理に呼んだりしてごめん。」
僕は、謝る。

「いいのよ。」
彼女の答え方があまりに静かなので、僕の胸は痛い。

「子供、大変だね。」
「子供のことは、いいのよ。気にしてくれなくて。」
「でも、子供のことが忙しいんだろう?」
「ええ。まあ、そうだけれど。子供のことはあまり言われたくないの。」
「僕には、子供がいないからね。」
僕は、拒絶されたようで、腹立たしい。

「違うの。子供のことを持ち出されると、なんだか、私達、随分と遠くに来てしまって、お互い全然違う道を選んでしまったんだなって思って、すごく辛くなるの。」
「よく分からないな。」
「分からない?私、一緒だと思ってたの。大学生のあの頃、あなたに抱いていた恋心と、今の気持ちと。だから、あなたと今抱き合えば、あの頃の望みが全部果たせると思ってた。あの頃不幸だった私は、あれから幸福になろうと沢山努力したの。そうやって、幾つも恋愛して、あなたが好きだったことも忘れるくらい幸福になろうと思ってた。」
「今、きみは充分、幸福だろうに。」

どこかに行ってしまおう。二人きりで。子供も、何年かの歳月も置き去りにして、どこかに。

「駄目なの。今の恋はどうやったって、思い出の恋に勝てないの。」
彼女の目はどこか遠くを見ている。

ああ。この感じだ。僕は、この瞳が見つめる先を知っている。急に無力感に襲われる。

そうして、僕は、彼女の中の昔の僕に勝てない。

人は、思い出には勝てない。

二人でどこかに行ってしまおう。そう言おうとした言葉を飲み込むと、あきらめて伝票を握って立ち上がり、僕は雨の中を出て行く。


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