セクサロイドは眠らない
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2002年04月11日(木) |
見上げると、白い月。もう帰らないつもりだった。どうして?と問われたら、月明かりのせいにするかもしれない。 |
帰宅した夫がネクタイを緩めながらしゃべっているのを、私は黙って、リンゴの皮をむきながら聞いている。夫は、酔っているせいで声が大きいのに気付いていない。
「そろそろあいつらにももう少し力を発揮してもらわないと、会社の将来が不安だからね。資格を取れ。全員取れ。って言ってやったんだよ。なのに、あいつらと来たら、こんなに仕事させられてたんじゃ、勉強する時間もないって騒ぐんだ。時間なんて、どうやったって作れるもんだろう?寝る時間削るなり、酒飲みに行く回数を減らすなりすればいいんだ。結局、口ばっかりなんだよなあ。」 「お茶漬け?」 「ああ。」
夫は、箸を握っても、まだ、愚痴を言い続ける。
私は、リンゴを見ながら、リンゴの曲線のこと。色のこと。ここが、こう、赤で、ここから黄色が混じって、ここにえくぼのような窪みがあって。そんなことに見惚れて、その美しさを絵に描いてみたい、と、その時、放心していた。
「おい。」 「え?」 「おかわり。」 「あ。はい。」 「相変わらずだな。時々、ぼーっとして。しっかりしてくれよ。」 「ええ。」
早く描きたい。
夫が、ようやく布団に入ってくれたのを確認してから、私は、もう一度キッチンに行ってリンゴを眺める。そうやって体の中に膨らんで来たものを記憶すると、私もようやく布団に入る。
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「ママ、今日はお仕事の日よねえ。」 「うん。」 「おやつ、用意しておいてね。」 「大丈夫よ。おやつまでには帰ってくるから。」 「そういって、こないだなんか、おやつ用意するのも忘れて遅く帰って来たくせに。」 「今日は気を付けるわ。」
週ニ回のパートに出るだけでも、なかなか大変なものだと思った。家族に迷惑が掛かるようなら即座にやめてもらうからな、と、夫からは厳しく言い渡されている。
せめて。
せめて、絵の具代だけでも、自分が働いて捻出したい。そういう一心で、働きに出た。
「いってらっしゃい。」 玄関で、学校に行く娘を見送った。
黒くて豊かな髪。私と違って背が高く、手足の伸びやかな美しい体。娘の後ろ姿は年々夫に似てくる、と思いながら見送った。
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もう、三十を越えてから、絵が描きたくなった。それは、泉のように湧き出して、私は、ただ、描きたいから描いた。最初は、夫に頼んで週一回のカルチャーセンターに通わせてもらっていたが、結局、それでは飽き足らず、家で一人で描くようになった。
夫に隠れるように描いているが、それでも夫は面白くない。家族に迷惑を掛けるなよ。と、うるさいぐらいに何度も何度も、言う。
そうは言うけれど、娘ももうすぐ中学生だ。母を追って泣く年齢でもあるまいに。と、言いそうになるのを抑える。
いつも、少し悲しい気持ち。夫の愛も、娘の愛も、私の心を悲しくさせる。
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夜。月明かりが差し込んで来て。それはまっすぐでためらいもなかった。
「行こうよ。」 月が微笑んだ。
私はうなずいた。
そうして、絵の具と、それから、少しの身の回りのもの。たくさんはいらない。むしろ、描くことができる手があればそれ以上は。
そっと音を立てないように、玄関を出る。
見上げると、白い月。
もう帰らないつもりだった。
どうして?と問われたら、月明かりのせいにするかもしれない。桜の花が狂ったように散っていたからでも、なんでも、理由はどうだっていい。
どちらにしても、それはきっかけに過ぎないのだから。
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それから半月。
嫁いでからは旅行らしい旅行もしたことがない私だが、月明かりが導いてくれた島に辿り着く。
そこで、絵の具を広げ、自分の心の中の描かれたがっているものを白いキャンバスに。
私は、ようやくいろいろなものから解き放たれて、絵を描く。
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この島には、時間の概念に人間が合わせるという習慣はない。
私は、今が何日かも知らない。
もう、家を出て随分と経ったのだろうか?
私は、描きあがった絵を波に乗せて、海から流す。それは、伝わるべくして、誰かの手元に流れつく。
風が、海の向こうから夫の嘆きの声を運んで来る。
「赦すから。何もかも、赦すから。帰っておいで。」
娘の声も。
「おかあさん。ごめんなさい。いい子にしますから、帰って来て。」
私は、もう、帰らない。たとえ帰ったとして、一度赦してもらったら、私は、また、次の赦しを請わなくてはならなくなる。そうやって、幾つも幾つも赦してもらわなければならなくなる。
だから。
赦された罪人になるくらいなら、逃亡を続けて生涯償えぬ程の罪を背負おう。
今夜も月明かりが差す。
まっすぐな明かりに、黒い影が長く延びるのを、私はどんな色で表わそう。
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