セクサロイドは眠らない

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2002年01月29日(火) 彼に抱かれると、干し草の香りがした。ああ。分かった。あなたこそが、はぐれた子馬なのね。

私は、童話作家だ。

冬とは言っても、思いがけず暖かな陽射しの午後、私は公園のベンチで書きかけの童話の最後を仕上げていた。
私の頬に、柔らかいマフラーの毛糸があたって、私は驚いて顔をあげる。

「ごめんよ。読ませてもらってたら、夢中になっちゃって。」
彼は、笑った。陽に焼けたような、小麦の肌。自然の茶色の髪。

「いやだ。全然気付かなかった。」
私は、照れて笑った。

「いいかい?」
彼は、手にしていたスケッチブックを取り出すと、サラサラと手を動かし始める。繊細な、柔らかい草。風を感じさせる子馬のタテガミ。

そう!そう!こんな感じ。

ああ。どうして、この人には、風が分かるのかしら。風を捕まえ、こうやって絵にして見せられるのかしら?私は、思いがけない出会いに涙さえこぼれそうなほどに感動してしまった。

その童話は、子馬の話だった。その子馬は、誰よりも走るのが早かった。だから、誰も付いて行けないのだ。子馬は走る。風そのものにならんばかりの勢いで。だが、子馬は気付いていない。あんまり遠くまで走り過ぎて、父さんも母さんも、兄さんも姉さんも、友達も。もう、誰にも来ることができない場所まで来てしまったことを。子馬が、そのことに少しでも気付いたなら、足が鈍ることだろう。だが、気付かなかった。走ることの喜びに心奪われて、別れも、悲しみも、遠いところに置いて来てしまっていた。

「ねえ、あなた、どこからいらしたの?」
「僕?僕は。」
彼は、何かを思い出そうとする目をして、それからニッコリと笑った。
「僕は、思い出せないんだ。過ぎてしまったことを。」
「まあ。」
「僕、どこに行けばいいんだろう?」
「うちにいらっしゃる?」
「いいのかな?」
「ええ。できれば、絵本を手伝って欲しいの。」
「喜んで。」

そうして、彼はうちにやって来る。

--

ねえ。どうして、あなたには私の描きたい世界が分かるの?

私は、彼の茶色の髪を、指でかき回す。

「どうしてかな?」
瞳までが茶色を帯びた、その眼差しが、私を見つめる。

彼に抱かれると、干し草の香りがした。

ああ。分かった。あなたこそが、はぐれた子馬なのね。

私は、彼の運んで来た風を、胸の奥まで深く吸い込んだ。

--

絵本が完成したのは、それから三ヶ月が経った頃だった。私達は、風と戯れるのに夢中で、本当にどこかに行ってしまうところだったが、その絵本が、私を現実に引き止めてくれたのだった。

「今日、あなたと私の、世界で一番素敵な作品を出版社に届けてくるわ。」
私は、あまりの嬉しさに、胸がつまりそうだった。

「気を付けて。」
彼は、相変わらず、草の香りのするセーターで、私を抱き締めてくれた。

「じゃ、待ってて。今日はお祝いよ。」
私は、走り出す。早く帰って来て、あなたと乾杯を。

「いいですね。素晴らしい出来ですよ。」
編集者は、満面の笑みで、私達の作品を迎えてくれた。

良かった。

あなたの笑顔だけが恋しくて、家路を急ぐ。

だが、私が急いで帰って来た時、部屋は空っぽで。

「どこ?ねえ。どこに行ってしまったの?」
私は、彼の痕跡を探すが、本当は分かっている。彼は、もう行ってしまったことを。通り過ぎてしまった風が、私にサヨウナラと告げる。

ねえ。もう独りになりたくないよ。やっと、独りじゃなくなったのに。

私は、その場にしゃがみ込んで、泣く。

--

訪ねて来たその女性は、私の顔を見て、うなずく。

腕には、丸々と太った、ピンク色のほっぺたの赤ちゃんが抱かれている。

「彼、やっぱり行ってしまったのね?」
「ええ。」
「その絵本は?」
「これ?」

私達の、素晴らしい作品。

絵本は、あまりにも素敵に自由で、そうして少し寂しかった。

「この本、彼があなたに残してくれたものなのね。」
「ええ。ええ。」
少し、声が詰まるけれども、泣いたら駄目なのだった。

「この子もよ。彼が私に残してくれた。」

分かるわ。彼にそっくりな、茶色の髪と、瞳。

--

それから、私達は、赤ちゃんに交互に絵本を読んで聞かせる。

「この子、この絵本大好きね。」

幸福そうな笑顔に、私達もつられて笑う。

私達は、寂しくなかった。

それどころか、彼がどこかで子馬になって走っているのが嬉しいと思えるのだった。


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