セクサロイドは眠らない
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2002年01月28日(月) |
悲しい終焉に向かって、一歩一歩、苦痛をこらえて年齢を重ねていかねばならないのだろうか。 |
ああ。もう、何もかも嫌になった。
そんな感情は、ある日突然、堰を切ったように溢れ出し、抑えられなくなった。
妻が出て行ってから、僕の時間は止まり、進むべき道は消え去り、生きることが途方もなく億劫になった。
誰かを傷付けたいと思い、世間を憎んだ。
そう。僕は、どうしようもない人間に成り下がった。
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その、独り暮しの老婆の家に忍び込んだのも、そんな気持ちからだった。仕事さえ失っていた僕は、その日飲む酒を買うだけの小銭が欲しかっただけなのだ。
誰もいないと思っていた家の中で、突然、話し声が聞こえて、僕は飛び上がるほど驚き、慌てて身を隠した。それが、その家に住む老婆の声であることは、すぐ気付いた。
「はい、はい、お茶ね。」 その声は、彼女しかいない筈の家の中に大きく響いた。
老婆は、ゆっくり立ち上がると、急須に湯を入れ、湯のみを二つ並べた。
ボケてるのかな?
どうやら気付かれていないようだ、と安堵した僕は、少し胸が痛むのを感じながら、その光景を眺めていた。誰も彼女の傍にいてやらないままに、彼女は、もう亡くなってしまった連れ合いの分であろうか。二つの湯のみの一つを、キッチンのテーブルの、向かい側の席に差し出す。
「今日は、少し寒いわねえ。」
「そう。忙しいみたいよ。仕事がねえ。あの子も、立派になったもんだから。なかなかこちらにも戻ってこれないのじゃないかしら?」 彼女は、しきりに、独り言を言っている。
「そりゃ、そうだけれどもね。でも、あの子を責めたりしないでくださいよ。あの子は、今が一番大切な時なんだから、しょうがないですよ。ええ。」 しわくちゃな顔が、何度もうなずく。
僕は、もう何年も連絡を取っていない、田舎の母を思い出す。父さんは腰を痛めて以来あまり外に出なくなった、と、寂しい便りが来たが、僕はその返事を出せないままだ。仕事が決まったら。何とか先が見えたら。その時は、連絡を取ろうと思いながら、日々は過ぎた。
「そうねえ。もうすぐ、中学生になるんじゃないかしらね?まあ、あんな小さかったと思ったら、年賀状じゃ、随分と大きかったものね。」 彼女は、奥に引っ込んだかと思うと、一枚のハガキを持って戻って来て、にこにこと微笑みながら、向かいの席に向かって差し出している。
それにしても、彼女は、失った思い出と対話しているのだろうか。
歳を取ると、誰でも、一番いい時の思い出にしがみつき、そこで夢を見ているのか。そこでは、まだ、亭主は生きており、息子は立派な勤め口を得て働き、孫達は健やかに育っているのだ。だが、今や、誰も彼女の傍にいてやらない。歳を取るというのは、何と悲しいことだろう。そうやって、人は、悲しい終焉に向かって、一歩一歩、苦痛をこらえて年齢を重ねていかねばならないのだろうか。
どうしようもなく悲しい気分になって、僕は、その家を去ろうとする。
そっとあとずさったその瞬間、僕の肘が当たってひっくり返った花瓶が派手な音を立てて割れた。
しまった。
と、思った。婆さんに見つかっちまった。
ヒヤっとして、キッチンをそっと覗いたが、相変わらず、彼女はゆっくりと湯のみを口に運んでいる。
そうか。耳が遠いのだ。
そう言えば、老婆は、耳が遠くなった者らしく大きな声でしゃべる。玄関口にあった黒板は、多分、会話さえ不自由になった彼女が来訪者とやり取りするために使うものだろう。
安堵したその時、僕には見えた。老婆に向かい合って微笑む老人の姿。
目をこすったが、確かに、その亡霊は、彼女の言葉に相槌を打ち、しきりに返事を返しているようにも見える。
そう。
もう、聞こえなくなってしまった老婆の耳に唯一響くのは、亡霊が心に直接語りかける言葉なのだ。
と、その時、僕は気付く。
少し震える指で花瓶のカケラを拾い集め、急いで謝罪の言葉を玄関の黒板に記す。
歳を取るのは、そんなに悪いことじゃないよ。目が薄くなり、耳が遠くなり、そんな風にしてようやく見えるようになるものも、聞こえるようになるものも、あるのさ。と、老人の声がする。
「若い人はねえ。急ぎすぎますものねえ。私は、今のままで幸せですよ。」 老婆が答える。
また、いつか、花瓶の弁償ができる日が来たら、僕は、この家を訪れよう。
冷たい風が僕を覚醒させるのを感じて歩く。
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