セクサロイドは眠らない
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2002年01月17日(木) |
一つの愛に出会ってしまった。いろんなものが音を立てて壊れて行く音を聞きながら、私を自分を止められない。 |
「ねえ。」 小さな女の子が、仕事帰りの私に話し掛けてくる。もう辺りは暗い。迷子になったのだろうか?
「どうしたの?」 「これ。あげる。」 「これ、なあに?」 「天使の卵。」 「天使の卵?」
シルクのような肌触りのその柔らかい布で包まれたそれは、布越しに触ると、幾つかの球形のようなものだったが、大きさに比べて羽のように軽かった。
「人に見られないように大事にしてたら、そのうち、卵から天使が生まれてくるよ。」 「本当に、天使?」 「うん。」 「ねえ、こんなものどこで・・・?」
もう、女の子はいない。暗闇に溶けるように、見えなくなってしまった。
私は、天使の卵、と呼ばれる、ゴルフボールより少し大きい白いものを三個、小さなダンボールにタオルを敷いて、その上に置いてみた。小さな女の子が言うことなど笑い飛ばしてしまえば良かったのかもしれないが、私は、その時、そんなものを信じたい気分だったのだ。
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私の憂鬱の原因は、二つあった。
一つは、付き合ってから三年が経とうとしている同僚教師からのプロポーズ。もう一つは、新学期から私が担任することになった、少々問題の多い生徒。
恋人であるその男も私と同じ高校で教師をしていて、人望も厚く、世間一般に言わせれば結婚には何の問題もない男だろう。それまでは、彼の指示で交際をひた隠しにして来たと思ったら、急に「結婚しよう。仕事は辞めてくれ。」と言われた。せっかちな恋人は、返事を急げ、と言う。
もう一つの問題は、親が離婚して、父親が海外に滞在していることが多いせいで、学校を休んだり、授業進行を妨げるような行動が目立つ少年が、三学期になって他校からやって来たことにある。
私は、ようやく慣れてきた仕事が面白くてしょうがないのだが、こんな悩みを相談すれば、恋人は、これは好都合とばかりに、私に仕事を辞めるように説得してくるだろう。
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私は、夜になると、箱を開けて、その白い卵をそっと指で触ってみる。指で押すと殻は柔らかく、暖かく、息さえしているように思える。
「本当に、天使が生まれて来るのかしら?」 私は、想像すると、楽しくなる。
けれども、私は、天使をどうやって育てるのかを聞き忘れていた。
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もう、他の生徒が帰ってしまった教室で、私は、彼を見つける。
「どうしたの?まだ帰らないの?」
いつもなら、私を茶化すか、顔をそむけてしまう少年は、力なく私に微笑んでみせる。 「お腹、空いちゃって。」 「昼、ちゃんと食べたんでしょう?」
彼は首を振る。 「今月の分、おやじが振り込んでくれてないんだ。」
彼は、いつもは違う表情の中に隠している子供のような顔を見せてくる。
「しょうがない。先生がラーメンでも奢ってあげるわ。」 「本当にっ?」 「ええ。」
しょうがない。飢えた子供を見過ごすわけにいかない。
私は、心でつぶやきながら、彼を車に乗せる。
彼の素顔は天使のように美しい、とその時初めて気付く。
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「結婚のことなんだけど、返事させて。」 「ああ。」
私と恋人は、喫茶店で向かい合って座っている。
「お断り、します。」 「そうか。随分と待たせてくれたな。」 「ごめんなさい。」
恋人は、怒ったように、無言だ。
「噂を聞いた。」 「え?」 「きみと、きみのクラスの問題児が、教師と生徒以上の関係なんじゃないか、ってね。」 「誰が言ってたの?」 「いろんな人間が噂してるよ。それについて、きみに何も聞くつもりはないけれど。だが、僕は、もう、きみを守ってやれない。守ってやる義務もない。」
彼は、伝票を持って、立ち上がる。
彼は、私の顔を見て、最後に言う。
「きみの美しさ。外見も心も。そんなものに惹かれてた。あの噂が本当だとしたら、僕は、心底きみを軽蔑するよ。」
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私は、涙に濡れて、部屋に戻る。
今更、どうしようもない。一つの愛に出会ってしまった。いろんなものが音を立てて壊れて行く音を聞きながら、私を自分を止められない。
部屋の隅の箱から、カサカサと音がする。笑い声のようなものが、時折響いてくる。
私は、天使の卵を入れておいた箱を空ける。
そこには、愛らしい、童話に出てくるような天使が、生まれ立ての表情で微笑みかけてくる。
私は、そうっと手を伸ばす。
「いたっ。」 慌てて手を引っ込める。
私の手から一筋の血が流れる。天使の羽は、刃物のようにするどく、私を傷付けて来た。
天使達は、箱から飛び出して、そこいらを飛び回る。
「キャッ。キャッ。」 と笑う。
私は、思わず、耳をふさぐ。
天使の顔は、あの、卵をくれた女の子にも、恋人の顔にも、少年の顔にも似ていた。
天使の羽が、ヒュンヒュンと、腕や顔に触れるたびに、私の体から血が流れる。
だが、天使の羽は、真っ白で。
清らかで。正しくて。無邪気に真っ白で。
決して、血に染まらない。
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