詩的エッセイ、つづっています。...笑 満ちる

 

 

アメリカ人の仏教徒、ジョーと語る「宗教の寛容の精神」パート2 - 2006年01月06日(金)

さて、はじめに前回の続きから。。


「私が昔勉強していたある書物の中には
 △△教はこうだ、○○教はこうだ、とか、
 他宗を否定することが書かれていたの。

 それを鵜呑みにすると、
 他の人に自分の正しさばかりを
 押し付けることになってしまう・・・。

 かつて私は実際そう振舞ってしまって
 決してうまくはいかなかったよ・・・!

 ジョー、どう思う?」

私は友人にこう尋ねました。

すると彼は
「宗教は人を助けるためのもの。
でも、宗教の名の下に多くの人の命が奪われ、
家族は引き裂かれ、
人生が破壊されてきた、と感じる・・・・。」

こう前置きした後、
ジョーは私からの質問に対してこう続けたのです:

「それは大変難しい問題だね。

それは、宗教がそれを信じる「人々」そのものよりも
大きくなりすぎてしまうということではないかな。

一個人にとって、
教義や哲学に翻弄されてしまうのは
とても危険なことだと思う。

自分たちがしていることが
道からそれていないか、
またなぜそれをしているのかを
しっかりと責任をもって監視し続ける必要がある。
裁きや恐れに負けずにね。

それは個人にとってかなり難しいこと。
教会というは人々の集まりだから、
教会にとってもそれは
とても大変なことだ。

事実、多くの教会はそれに堪えられない。

と、新たな考え方を私に教えてくれました。

そういえば、私も高校生の頃に、
「宗教のために人間がいるのではない、
人間のために宗教があるのだ」

って、教わったっけ。。

考え方が違う人を責めたり、非難してばかりいたら
結果的に自分の宗教まで否定してしまうことにもなりかねません。

人は、
「これは絶対正しいのだ」
という何らかの信念を持つことで、
ものすごいパワフルになることができます。

これは宗教のもつ偉大な力です。

でも、教えの「正しさ」を主張することにこだわりすぎて、
他の宗教が持つ良い点や、共感できる点に
気がつくことすらできなくなってしまう。

悲しいことです。


バンビーノは近頃、それまで知らなかった自分とは違う宗教を持つ、
誇り高いステキな人にたくさん出会いました。

彼らと話していると、
自分の考え方との違いを感じることよりもむしろ、
全く同じ考えを、違う言葉でうまく表現されている、
なんてことの連続だったりします。

まさにここに、自分の考えを見直しながら相手の言い分を尊重し、
理解しあっていくためのブレークスルー
(突破口)となる考え方があると思いました。

私にはまだまだ慢心があり、
ジョーのような「寛容」がないなぁ、
と反省しました。

彼とは今後も連絡を取り続けていきます。



ジョーに、この一連の対話を
日本の友人と共有したことを話したところ、
彼はこのテーマについて
「いつでもさらなる対話を歓迎しているよ!」
というメッセージをくれました!

ジョーになにか質問してみたい人は
ぜひコメントください。
あなたの考えをエイゴに直して伝えてみたいと思います。


ありがとう。


-



 

 

 

 

目次
過去  未来

Mail Home