「静かな大地」を遠く離れて
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題:321話 チセを焼く21 画:鍋ぶたのツマミ 話:いつか北海道全体がチコロトイのようになると信じることにしたのよ
雪乃=エカリアンを書くと格段に精彩が加わるように感じるのは気のせいか? 今日はどこを引用しようか迷うほどに力のある台詞が多かった。結局のところ、 池Z御大は小説の仕事においては、凛とした女性像を描くことにしか関心が ないのかもしれない、と思ったりもする。エッセイや論説では出来ない仕事。 それは「生きる」ということの局面において、「こう在れたらいいな」という モデルをありありと提示することかもしれない。彼らのユートピアの描き込み の彫りがまだ浅いのは否めないけれど、とても魅力的な主題であるのは確かだ。
そしてそれを補強するのが、エカリアンの“信じる力”、すなわち「妹の力」。 最小単位のユニットとしての、夫婦における共同幻想、ともに紡ぐ物語の魔法。 それと地続きのコミューン=共同体としてのチコロトイ=遠別ユートピア幻想。 そこではアイヌのみならず、馬たちさえもがコミューンの“構成員”である。 この異種間コミュニケーションのヴィジョンはいささか『風の谷のナウシカ』 めいていて、ちょっと今の日本の甘口な自然観に寄り添い過ぎな感はありつつ。
北海道・日高のいくつかの牧場を訪ねたことがある。そのとき見聞きしたこと によると、日本の馬の育て方は欧州の本場からすると現在でさえなおギャップ があるそうだ。端的にいえば育て方が荒い。市場における“良い馬”の基準が “人が扱い易い馬”ということならば、育成段階で人手をかければかけるほど “良い馬”が育つことになる。そういう手法で効果をあげている牧場も見た。
その聞きかじりの知識に基づくならば、馬の育成に一日の長のある諸外国人の 牧童(含む女性)たちは、よく馬の鼻先に顔を寄せて話しかけるのだそうだ。 だからチコロトイの戦略、すなわちアメリカ仕込みの三郎の知識と、アイヌの アニミスティックな馬との交感との組み合わせが成功するというのはあながち 作者の思い入れによる無理な設定ではなくて、なかなかリアリティがあるのだ。
にしても鉤括弧なしで登場人物がダイアローグを展開する『静かな大地』形式、 これを今日ここで勝手に“チャランケ小説”と呼んでおくことにしよう(笑) 「ちゅらさん」が、その本質において“ゆんたくドラマ”であったように…。 この“チャランケ小説”を、最も楽しく読んでいるかもしれない読者としては、 これからあとに来るはずの三郎たちの悲劇を直視するのはつらいかもしれない。 そこに御大が物語作者として、どんな光明を付与してくれるのか、期待しよう。
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