「静かな大地」を遠く離れて
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2002年05月06日(月) 米国、日本、独逸

題:320話 チセを焼く20
画:骨抜き
話:アメリカというのは万事を民が決める立派な国だとまず教えられた

アメリカに眉をひそめて欧州のインテリの口真似をするという態度は、とりあえず
禁じ手にしておいたほうがいいのではないか…と思いつつ、21世紀を生きている。
なんだかわからない流れだけど2000年秋には初めて米国にも出かけた。東海岸
の一部、ボストン周辺のニューイングランド地方と、ワシントンDCだけだけれど、
僕はあの土地を好きになった。覇権国があって、文明のモデルが提示されて、それ
をどう受容したり、あるいはそれに抵抗したりしながらやっていくのか、畢竟ヒト
の歴史というのは、そういう風に最前線を進んでいくのだろう。そんなことは遥か
昔に通り過ぎてしまった、というギリシアの島嶼やイタリアの田舎町に住んでいる
老人とかもカッコイイのだけれど、ひとまず彼らのような面持ちになるには修行が
足りない身なので、それなりに世界の動向とつきあっていかねばならないとは思う。

一方でもうひとつ、「白州正子に頼らない」という禁じ手ネタもあったりする(笑)
なんだろう、北海道に居た数年間のうちに、“日本文化”とか“日本的美意識”の
ようなものにアクセスする「既得権益」みたいなものが、自分にデフォルトで在る、
という前提を否定するような心性が芽生えたのだ。これを僕は“強さ”だと思った。
今や僕にとって“日本文化”への距離感は“ハンガリー文化”や“チュニジア文化”
への距離感と変わらない、そういうところから出発する認識と気概とが必要なのだ。

だからというわけでもないが、大学時代がバブル最盛期にぶつかった癖に白州正子
の本なんて読んで、隠れ里にでも出かけようかという変な若者だった僕がしばらく
“日本文化”を禁じ手にしてきた。そうすれば逆にミーハーになりきれて、バリ島
への不届きな視線を行使するかのように“日本”を味わえる、というお得感もある。
時折お忍びで来日して近江辺りの古刹を訪ねるというシラク仏首相でも目指そうか。
とりあえず『サライ』誌をこっそり熟読していたりするのも、その線だったりする。

こんな不真面目なことばかり言ってないで、須賀敦子ちゃんを読み直さなければ(^^;
ちなみに須賀系の名著を紹介しておこう。“良書”を紹介するのは恥ずかしいけど。

■小塩節『木々を渡る風』(新潮文庫)
(帯より)
 信州とドイツ。ゆかりの地で出会った木々の想い出……。瑞々しい筆致の名随筆。
(裏表紙より)
 木々の枝や根の広がりは、まるで天と地を結びつける宇宙の軸のようだ−そう語る
 著者は信州で多感な少年時代を過ごし、文学を志してからは、幾度となくドイツや
 ヨーロッパ各地を旅してきた。見慣れた木々も異国で出会うと新鮮で、驚きや感動
 を呼び起こす。木への深い愛着を、旅の想い出と重ねながら綴った日本エッセイス
 ト・クラブ賞受賞作。著者撮影による木々の写真も多数収録。

小塩節氏は僕がまだ子どもの頃に教育テレビのドイツ語講座の講師をされていた方で、
よく響くバリトンの素敵な声が印象に残っている。『ドイツ語コーヒーブレイク』や
『ドイツ語とドイツ人気質』という著書を昔読んでいたけれど、木々を話の枕にした
プライベート・エッセイは、また魅力的だ。こういう本を読んでいると、旧制高校と
独文学に表象される「教養」というのも悪くない、とミーハーなことに思ってしまう。
近代の日本のインテリにとっての欧州。その切実さ。これもまた今の若い衆には実感
として共有しにくいことなのかもしれない。小塩節氏や須賀敦子さん、阿部謹也氏の
著作などを読んで、“光は西方から”という時代の匂いを追体験するしかないけれど。

21世紀の“当事者”としては、では何を拠り所にするのかと途方に暮れるしかない。
だからこそ、静かな大地を出発点にして果敢に未来圏を望む気概を持てれば、と思う。


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