「静かな大地」を遠く離れて
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2002年04月16日(火) 榎本君と高杉君

題:300話 砂金堀り30
画:ショウガ
話:うっかりするとここが気に入って、このまま長逗留しかねない

歴史は面妖なものであります。ほんの100年前、200年前のことがさっぱり
わからない。まして「近代」というダイナミックで複雑な時代に起こったことの
顛末を読み解くことは容易ではない。特に日本の19世紀後半あたりは難しい。
列島を蚕食しようとする外国勢力と、それに抗する幕府・諸大名という構図には
収まらところがある。何が保守で何が革新か、諸勢力が入り乱れて理解しがたい。
三郎の拓いた遠別ユートピアも、その「近代」の混沌の海に浮かぶ小さな島だ。

ここを読んで下さっている方には今さら推奨するまでもないが、佐々木譲さんの
『武揚伝』(中央公論新社)は、“遠別ユートピア”の背景となる北海道の史実
を踏まえた骨太な歴史大作である。この度、新田次郎賞を受賞されたとのこと。
佐々木先生、おめでとうございます。今後も新しい読者を獲得していく力を持つ
作品だと思います。僕の想像以上にエノモトタケアキという人物への毀誉褒貶は
甚だしいようで、彼の評価や通俗的人気が現状から大きく変わるには、時代とか
人々の歴史意識そのものの変化を待たなければならないのかもしれませんが…。
ともあれ、こういう受賞によって作品が認知されることは良いことだと思います。

「幕末」「明治維新」に自ずとまとわりつく「神話」のようなものを解きほぐす
ことは、われわれが立っている地盤そのものの自明性を疑い、再認識することに
他ならない。『武揚伝』が力強く切り拓いてくれた視点を以て、もう一度「維新」
を起こしたとされる側の歴史に目を向けてみることはディベートの勉強みたいで
正しい歴史の楽しみ方だろう。若手の長州研究者によるハンディな新刊も出た。

■一坂太郎『高杉晋作』(文春新書)
(まえがきより引用)
 「御一新」は成ったものの、日本に本当の春はまだ巡ってこない。それは二十一
 世紀を迎えた、現代においてなおのような気がする。日本人がいつまでも晋作や
 坂本龍馬といった、若くして死んだ幕末の政治運動家たちを「英雄」「偉人」と
 して奉らねばならないのは、ある意味での滑稽な悲劇なのかも知れない。我々は
 本当の「春」が訪れるまで、永遠に晋作復活の幻を見続けねばならないのか。
 そのように人々に期待させる高杉晋作とは一体、どんな人物なのだろう。果たし
 て、現代に蘇ったとしても、日本を救ってくれる力を持った人物と言えるので
 あろうか。史料に従いながら、晋作とその時代を探ってみたい。
(引用おわり)

著者の一坂氏は1966年生まれということもあってか、「明治維新」に対する
ある種のドライな、しかしそれゆえにロマンティシズムに毒されない見方が特徴
かと思われる。エモーションたっぷりなだけの英雄史観は、何も教えてくれない。
回天の震源といっていい、長州というブラックボックスを覗き込む面白さがある。
歴史の経緯を追う叙述は枚数を食うので、出来れば選書のボリュームが欲しいか。
そこは著者自身による私家版の著作やホームページでフォローされているようだ。
http://www.h2.dion.ne.jp/~syunpuu/index.html

あとがきで今年刊行すると告知されている『高杉晋作史料』の版元、マツノ書店
は、山口県徳山市にある知る人ぞ知る古書店。実は小学校高学年から中学校の頃
の僕は、この書店の真価も知らず、フツウの古書店として熱心に通っていたのだ。
「維新」を心の拠り所にする「保守」な気風の初等教育の中に、転校という形で
突然放り込まれて、日の丸の掲揚時は「君が代」の校内放送を聞きながら掲揚台
の方向に向かって直立不動、などという70年代末とは思えない教育現場だった。
先生のギターで「戦争を知らない子供たち」を歌うべき戦後民主主義の世の中で、
校長が吉田松陰の言葉の素読暗誦の課題を毎月課してくる、というのもあった(^^;

まさに何が革新で何が保守だか子どもにはわからない教育だったような気がする。
時代の意味づけや人物の歴史的評価なんて、時の潮目でいかようにも変わるのだ。
その中で自分の居場所を確かめるため、過去をリフレッシュさせる目を養うこと。


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