「静かな大地」を遠く離れて
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題:232話 函館から来た娘22 画:デンデン太鼓 話:もうこの世の果てまで行くかと思ったころに、ようやく家に着いた
三郎たちが建設しつつある「遠別コミューン」の雰囲気が伺える叙述が少し出てきた。 札幌の学校で三郎が学んできた、アメリカ仕込みのテーブルと椅子のライフスタイル。 ゆんたく空間の参与観察ルポを弥生さんの目で描くという技、この章の残りが楽しみ。
住むこと。住む場所、働く場所、時間と空間の過ごし方。その豊かさと貧しさの諸相。 究極それは「国家」とか「歴史」、「文明」という規模の話につながってくる問題だ。 たとえば国家百年の夢として「とびきり美しい国土」を欲望してみる、のはいかがか?
“醜い利権複合体のモンスターと化した土建国家”という紋切り型を百年単位ででも 解消できるなら、結果的にこれに勝る仕事はあるまい、と思う。この場合難儀なのは、 「とびきり美しい」という、曖昧なヴィジョン。何せ美意識は検証不能なるがゆえに、 何をもって「美しい」としうるのか、そのコンセンサスの創りようが事実上ないのだ。
かといって、ものごとの経緯のまにまに行く末を任せれば、目を覆う現状が加速する。 ↓住むことに関する思い込みを事細かにひっくり返しつつ、美意識を通す実践の書。
■林望『思い通りの家を造る』(光文社新書)
かつて、僕が現在の前に東京に住んでいた1987年から93年のバブル盛衰期には、 まだしもこの都市に関して語られる言葉も在ったように思うのだが、今回住んでいる 限りみんなそれどころじゃないというか、諦めきったといおうか、希望にせよ絶望に せよ、およそ都市論めいたものが聞こえてこない。あの金で何が買えたか、じゃない けれど「失われた10年」の間に、この都市をリデザインする時機もまた逸したのか。
あの95年に一度「廃墟」と化したのかもしれない東京では、下北沢っぽいスタイル の暮らし方が似合うのかも。言ってみればバブル後の「焼け跡」「闇市」みたいな…。 荒俣御大も『帝都物語』を再開されるようだし、かつて『月刊東京人』を愛読してた くらいの都市論ネタ好事家としては、自分なりの2002東京スタイルをさらに追求 してみたいと思っている。基本は、やっぱりカフェと自転車ね(笑)
ま、林望先生に見習えるのは、家を造ることではなく、自前の合理性を鍛えることか。
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