「静かな大地」を遠く離れて
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2001年12月06日(木) 物語淘汰の時代

題:173話 フチの昔話23
画:ヤマブキ
話:アイヌと和人の接触があった後の話であると私は思う

「火星人、ボストン、能登半島」という題のネタを書こうと思っていて
無精なものでなかなか書けないでいるけれど、まぁ、そのうち(^^;
昨夜のは支離滅裂ながらネタ同士が呼応してなかなか僕らしい出来だった
と思うのだが、あの程度書くのにも結構精力は使うもので負担ではある。
そのうえ普段まったく見なくなっているけど夜中には音を消してオンに
してあるテレビから欧州のチャンピオンズ・リーグなど流れるものだから、
しかも昨夜はユベントスとアーセナルの試合でスゴイ選手ゴロゴロ出てて
睡眠時間をさらに奪われてしまった(;_:)

さて内容。インテリ長吉さん、いいところに気がつきましたね(笑)
西東始先生のところでも話題になっていた「義経伝説」とかもそうだけど、
とかく“フチの昔話”みたいなものに触れると、途方もない過去に成立した
物語だと誤解してしまうことがある。でも口承伝承という情報処理形式が
「生きている」共同体においては、体裁や登場するアイテムが「昔話」風
であったとしてもメチャメチャ最近「創造」「捏造」「改変」されている
場合がありうる。またそういうダイナミズムがあればこそ“お話”が力を
持ちうる。大事な知恵を、理屈を超えた純度の高い状態で共同体の成員に
配布することができる。“お話”に作者の個人名が付与されることはなく、
話者は匿名の中に隠れている。…この形態、悪くすると共同体を滅ぼす。
物語の生理としてオーディエンスの期待に応えたがる傾向があるから、
情報処理がいい加減になる。これを「ケツァルコアトルの誤謬」と呼ぶ。
…って今ここで初めて呼んだんだけど、ええい、この手の話は難しい(^^;

凡庸な「ゆるい」物語を許さない、「物語淘汰」の時代が来るべきかも。

先日『ヌナブト』の流れで『宮本常一が見た日本』(NHK出版)に触れた
けど、「取材者」と「被取材者」の関係こそ、過去に「お話的共同体」を喪い、
いままたマスメディアという「情報神官テクノクラート」の崩壊を目の当たり
にしつつある人々の、世界と対峙する基本姿勢ではないかとの感を強くする。
で、上記の本も『旅する巨人』も、増して宮本常一『忘れられた日本人』も
手を出す暇はないけど、この話題が琴線に触れた方のためのハンディな本。

■佐野眞一『私の体験的ノンフィクション術』(集英社新書)
 新世紀になろうと、IT時代に突入しようと、人間が生きるうえで調査し、
 情報を集め、それらを評価して自分のものとする道筋に大きな変化はない。
 ノンフィクションの方法とは、ある意味で、社会に生きるうえで必要な
 それと驚くほど似ている。私淑する民俗学者・宮本常一の「野の取材学」
 を導きの糸に、節目節目の自作を振り返って率直に検証し、そこに込めた
 思いを語る。著者がすべての「歩き」「見」「聞き」「書く」人に向けて
 初めてまとめた、「自伝の面白さ」の文章・取材・調査論。
(以上、引用終わり)

っていうとハウ・トゥ本のようでもあるが、とても真摯に宮本常一をめぐって
プライベート・エッセイ風に綴られる著者の道程は、下手なマス・メディア
よりもずっと頼りになる。こういう「情報導師」みたいな人を何人か持ちつつ
自前のフィールドワークの研鑽を重ねれば、多少は「物語リテラシー」向上に
つながるものだろうか。時事系ノンフィクションにしてもトラヴェローグ系に
してもフィクション専門にしても、著者の層が薄いというか良い本が少ない。
マトモな読者が少ないというのもあるのかもしれないが、マトモな編集者も
きっと少ないんだろうな。「知の企み」みたいなの、儲からないだろうし(^^;

骨太にして繊細な「物語」生成(=発掘)能力。求められているのは、それだ。


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