「静かな大地」を遠く離れて
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題:115話 札幌官園農業現術生徒25 画:王冠 話:麦の方はビヤと呼び、葡萄の方はワインという
三郎のように「酒というものがわからない」とは言えなくなって久しい。 頻度も量も極少ないのだが、酒の種類と味はずいぶんと覚えた。 酒の魔力に酩酊しているときの時間の流れ方、というものがある。 夢にも遠い過去の記憶にも似ている。それが心地よくて、また飲む。 ショウガナイネ、マッタク。
*チェーホフ作、岩松了・演出「三人姉妹」(シアターコクーン) なんだってこの物騒なご時世に芝居見物ばかりしているのか、という週末。 かつてサラエボで「ゴドー」を上演したという故事もあるし、演劇は力を生む。 かといって滑稽な芸術至上主義は、滅ぼされる兵営で良い和歌を詠んで、 その治世の正統性を保持しようとするような言霊主義的転倒を呼ぶ。 ま、本当に「有効」なのなら呪術でも念力でも良いのだけれど(^^;
にわか観劇者なので演劇には全然詳しくないのだけれど、 チェーホフの登場人物の特徴なのかロシアのインテリゲンチャの物言いなのか、 やけに「あと30年もすれば人間は」とか「200年や300年後の未来には」 とかいうセリフが耳に着く。チェーホフ自身の生きた時代からみれば遥か未来を 我々はすでに生きているわけで、そういうセリフは妙に生々しいタイムカプセル のように役者たちの肉体を通して自分の中に響き始める。
ひるがえって自分は今、300年先の未来には…という思考を持つことがあるか? そしてそういう時間スパンと同時に語られる、“崇高なる精神の勝利”とか、 “人類の革新”みたいなものを、おぼろげにでも信じられるか? 現在の自分たちの営みを300年後の人たちがどう見るか、という視点で ものを考えることがあるだろうか?
時間感覚の持ち方、それと世界像。そこには不可分の密接な関係がある。 生まれて生きて死んでいく。有限の肉体を共に、他の誰でもない自己として。 ある時間を過ごすということは、他の時間を生きる可能性を喪うことでもある。
つらつらと、そんなことを想いながら舞台の上のイリーナ役・緒川たまき嬢を ウットリと「鑑賞」していたら、登場人物達の形而上的な会話が過ぎて行った。 どうやら彼女に酩酊して、違う時間に入り込んでいたらしい(爆)
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