「静かな大地」を遠く離れて
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2001年08月31日(金) |
「物語」をやっつけろ! |
題:79話 鮭が来る川19 画:ヤエムグサ 話:ラオゥマプによる鱒の捕り方
昨日職場の自席の引っ越し作業の最中に右手の中指の腹を 切ってしまったのでキーボードが打ちにくい、 よって予告したオランダ絡みの歴史の話は、一寸繰り延べ。 …って、なんか編集者の催促をかわす作家の言い訳みたい(^^; 楽しみにしてくださる方、代わりに書いてメールして下さい、 そしたら楽だから(爆)
きょうのネタは「狐のチャランケ」のエッセンス。 チャランケとは、議論、ディベート、異議申し立て、か。 人間が、あるいは他の動物が、自然界の「財」を独占しようと したときに、神様はちゃんと享受者の数をカウントして贈って くれているはずなのに、独占するのはおかしい!という議論を ふっかけるキツネの話。
しかし、成文法ではなく口承民話とはいえ、こうした訓話めいた 物語が生成してきたのは、いつごろのことなのだろう。 すなわちこの民話が戒める「仮想敵」は不届きなアイヌなのか、 搾取者たらんとしていた和人なのか。
重要な知的処理過程を、「神話」や「物語」に依拠する共同体の プラグマティックな“使い勝手”というものを、あんまり信用 してはイケナイような気がする。 詩的言語でこそ掬い取ることが可能な「真理」や「叡智」という のは確かに在るだろう。
しかし「物語」を司る共同体成員も、容易に誤謬を犯しうる。 なんだったら、源義経を神と奉じることだって「可能」なのだ。 それすらも長期スパンの歴史の綾の中で「誤謬」と断じうるか、 否か、みたいな話になってくると、もはや「神話」の皮を被って いるほうが扱いが厄介なだけに、共同体の桎梏となりやすい。
現在、将来において「神話的知」とか、「物語」に親しみ、 それを称揚しようとする者ならば、まずそうした「しくみ」に こそ精通した“すれっからし”にならなければならないだろう。 これは、苦いけれど希望に満ちた結論である。
…うーん、きょうは一際わかりづらいかもしれないね(^^; でもとてもとても大事な「肝」の部分なんだよね、このへんは。 いつかわかりやすく説明できるように努力します。…ウソ(笑)
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