「静かな大地」を遠く離れて
DiaryINDEX|past|will
2001年06月13日(水) |
「幻代史」とシバリョー君 |
題:2話 煙の匂い 2 画:麦 話:鉄砲の匂いの記憶が「歴史」を物語る
オーラル・ヒストリーという学問的用語がある。 よくわからないけど『沖縄ハワイ移民一世の記録』なんかは そういうジャンルの秀作と呼べるだろう。(「100冊」の062参照。) ベタ訳なら口述史、って感じ。聞き書きの個人史。 星野道夫『ノーザンライツ』にもそういう側面がある。優れた資質と 「立ち位置」を要する仕事。「歴史」を語る際に、客観的な事実などは そうそうあるものではない、もしかしたら金輪際ありえないもの かもしれず、確かに在ると言えるのは当事者たちそれぞれの「言い分」 だったりする。最近の夥しい数の脳関係の本のタイトルを書店で眺めていたり するに、どうやら「記憶はウソをつく」という科学的根拠があるらしいし、 視えている世界像自体も個々人によってまるっきり異なるのだろう。
原初的な感覚に伴われた記憶というのはデジタル・データのように 扱いやすいものではないけれど、喚起力は確かに強い。 優れた(高機能な)物語は共感覚に巧みに訴えるコードの体系をなしている。 「根拠のあるウソ」とか「ツボを心得たホラ話」というのはおもしろいものだ。 御大が今回はじめようとしているのは僕の大好きな「幻代史」とでも 呼びうるスタイルかもしれない。ナビダード共和国もずいぶんと念入りに 「ツボを心得た」お話だったけれど、マシアス・ギリの一代記であり、国家の モデリング遊びであり、つまるところ空間的というかヨコの展開だったような 感じがする。とするなら今回はタテの線を描こうとしているように見える。 まずもって作家自身の祖先が生きた時間域を走査する物語なのだろうし。
「自虐史観」超克派(?)の歴史教科書を作っている人たちと、それに異を 唱える人たちの双方に、大前提としてまず「歴史」と「物語」が拠って立つ ところの、あまりに曖昧模糊として頼りなく、そうかと思うと感心するほどに 精妙な仕組みに出来ている「記憶」というものの成り立ちを再認識して もらいたいと思う。 まず高級なウソのつきかたをこそ、子供たちに見せてやること。
歴史の語りの名手としてシバリョーこと司馬遼太郎をあげる人も多かろう。 でもあれはきっと思い切ってつくウソだからおもしろいのだろうと思う。 というか、あのベストセラーたちは徹頭徹尾、司馬遼太郎本人のために 作られた言ってみれば「オーダーメイド」の物語なのではないか? 青年の日に満州の野でブリキのような装甲の戦車モドキに乗せられて 「敵」と対峙させられた人がそのあとの人生をカウンター・バランスを とりつつ生きていくための治療装置、あるいはドラッグみたいなもの として、あの作品群が切実に必要だったのではないか? それは別に彼の仕事の価値を低く貶めることではない。 普遍は個別の追求を突き抜けてのみ到達できるのだろうし。 ただ一点、そうした彼の前半生を共有していない人は、すなわち満州で ブリキ戦車に乗ってない人は『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』を読む時 に気をつけましょう、という「使用上の注意」である。
もちろん一種のアイロニカルなジョークとして言っている面もあるのだが、 実際彼の作品を不用意に「聖典」にしてしまいかねない雰囲気が日本の オジサンたちにはある(笑) 彼を(誰でもいいのだが、たとえば)カート・ヴォネガット・Jrのように、 あるいは渋澤龍彦のように大好きだ、という受容の仕方ならば良い。 愛でるアイテムこそ違えど、元少年が紡ぎ出すロマネスクとしてたまらなく 上質で味わい深い、というのならOK。僕はそのように彼の本は大好きです。
さもなくば日本株式会社の財力と技術力のすべてを傾注して、電脳ご託宣マシン 「シバリョー君」でも開発して、何か新しい時事問題が持ち上がる度にコメント を求めて安心する、というのがいいかもね。 なんかサイバーパンク全盛期の作家にでもホラを吹き込んだらホントに書きそう なネタだけど、日本の財界人のジイさんが、電脳端末に顕現する「シバリョー君」 にお伺いを立ててたりするの(笑) なんか白髪のCGキャラで大阪弁で喋るんだ、きっと(^^;
<G−Whoメモ> これ、なんだかんだ言ってBBSより睡眠時間食うなぁ(;_:) もっとしょうもないこと書きたいんだけどなぁ。 ま、とりあえずまだ読んでる人もほとんどいないし、いっか。
|