ナナとワタシ
ナナとワタシ
INDEX前へ次へ


2003年11月25日(火) 試してみる価値はある

前回と同じ電話で、Aセクシュアルの流れから、こんな内容の話になりまして。


「・・・・そう考えてみると、結婚してるけど、実はえっちとかはキライって人、案外いそうな気がするなあ」とナナ。

「いるかもね。社会の洗脳により、そんなこと考えてもいけない、という抑制がかかって、気づけない人だっているかもしれないし」

「洗脳?」

「洗脳」

「どんな洗脳?」

「男と女は結婚して当然。そして結婚すればえっちして子供つくって当然。それが人間としてあたりまえ、という洗脳」

「それって洗脳なのかあ?」

「(笑)もちろん、愛し合っていれば自然にえっちしたりすることになるほうが圧倒的に多いだろうけど、そもそも『結婚』というシステムが、社会整備のために後からつくられたものであるわけじゃん。そのための洗脳」


ことわっておきますが。

これは一般論とか、「これが正しい理屈だ!」とか「じょりぃの主張、ここにあり」、とか言うわけではなく、あくまでもワタシが個人的にナナと話している会話の流れの中で出てきた理屈であります。
細かくきちんと、ワタシの考えを世間一般に向けてお伝えしようとするならば、また違った表現になるかと思いますが、このテキストの中では、あくまでも「ナナにとりあえず、今話していることを納得してもらうため」というスタンスで話は展開しています。
なので、けっこう偏った論旨展開になってますが、そのへんはあまり熱く考えず、友人二人の軽いディスカッション、という感じで「ふーん」と読み流していただければと。
もちろん、言いたいことがある方は遠慮なくどうぞ、なんですが。一応、ことわり書き。



「じゃ、あたし、洗脳されてるのか?」

「されてる部分もある、という話。 そういった洗脳のせいで、自分の本来のセクシュアリティとか、何がイヤで何がスキなのかってことが見えなくなってしまう人もいるかもしれないってことだよ」

「でも、じょりぃの言う『洗脳』がなかったとしても、あまり事態は変わらないんじゃないのかなぁ。それに、洗脳って、やっぱピンとこないよ。大袈裟じゃない?」

「そうかな? でもワタシたちは物心つく前から、男の子なら男の子らしくって育てられて、女の子は女の子らしくってピンクとか着せられたりするじゃん? そういう固定観念をいっさい取っ払って育てて、異性をスキになるのがあたりまえ、って考えも取っ払って育てて、『好きな子ができた』って子供に打ち明けられたときに『ホント?どんな子?男の子?女の子?』なんて世の中だったとしたら、それでも今とまったく同じ状態になると思う?」

ここまで力説してしまうと、もはやワタシ、カムアウトしたも同然かも、と心配しつつ。
あるいは「セクシュアリティ解放運動者」みたい、と思いつつ。
なぜか力説。

「それは・・・どうだろうね。 よくわかんないけど、今あたし、話を聞いててふと思ったんだけど、 ハダカってさ」

「ハダカ?」 突然ですね。

「うん。 あたし、ハダカって、男の人より女の人の方が好きだ」

「ああ」 ノンケの人でも、そういう人って多いですよね。

「男の人のハダカって、ちっとも見たいと思わないけど、女の人のハダカって、きれいだなーって、なんか見たくなったりする」

「そういう人は多いよね」

男のハダカのが全然スキ!女のハダカ、キョーミなし!って女性も、もちろんたくさんいらっしゃいますが。
しかしそう考えると、ナナも100%ノンケってこともないかもしれませんね。

「確かに、今この話が出なければ、あたしはそのことに気づきもしなかったかもしれないね。 ということ?」

「ということ、も、あるかも」

「あたしも、同性愛も試してみる価値はある、ってことだね(笑)」



え”。


一瞬、答につまるじょりぃ。



「そういう人もいるかもしれない、 ってことだね」 お茶を濁すじょりぃ。

さっきまでの鼻息の荒さはどこへ?



でも、今このように書きだして、読み直して、会話を思い出してみて思うのですが、やはり今現在「今の結婚というシステム」が現実に存在し、そのシステム上で家庭というものが成り立っているということを考慮すると、余計な知識はないほうが、「家庭の幸せ」というものは守られるのかもしれませんね。
奥さんが急にいろいろと自分自身について内省し始めて、「実はあたしはセックスが嫌い。あたしを尊重するならもうやめてください」と言い出したり、「どうも実は女性の方が好きみたいです。どうしよう」とか言い出したりしたら、家庭の平穏は乱れる可能性が高いですから。
「個人の幸せ・個の尊重」と「家庭の幸せ・夫婦の平穏」のバランスって、実はとても難しそうですね。

もちろん、これらがバッチリマッチして、幸せに暮らしている方々も山盛りいらっしゃると思いますが。
そして、自分のセクシュアリティと格闘しながら、家庭と自分の幸せに奮闘なさっている方々もたくさんいらっしゃるでしょう。


何が言いたいのかよくわからなくなってきましたが。

みんな幸せになりましょう。 LOVE & PEACE ってことで。
と、軽薄にまとめてみるじょりぃ。



話を戻して。




ナナ。

試してみるときは、よそで試さないでください。

ワタシがいます。



って、これがいちばん言いたかったのよ、ワタシ。





「同性愛を試す」なんて言うと、バッシング受けそうな気もしますが。
ナナは冗談で言ってます。念のため。
ワタシ個人としては、「試す」という感覚も、同性愛に限らずアリかな、とは思ってますが。
何につけ「慣習により、気づけずにいる人」というのはけっこういるんじゃないのかなという気がしますし。
例えば「絵を描く」という行為を知らず、描く物を手にしたことすらなかった「絵の天才」が、「描かせてもらう」ことによってやっと自分の才に気付く、ということはあるのではないかな、と。
この手の(特にレズビアンからの)バッシングは意外に強いので、ここにワタシの考えを補足しておきます。
と、今日は言い訳だらけのじょりぃ。ふう。


じょりぃ |HomePage