誰も読んでないだろうけど、7月24日に書いた「土井たか子と社民党の歴史」の続き
(自分でも忘れてた)。
今回は、前身である社会党の歴史に触れたい。
日本社会党は「二本社会党」とバカにされたように、結党時(昭和20年)から
右派と左派が争い続けていた。
もともと社会党は、結成準備委員会に出席した荒畑寒村がその顔ぶれを見て
「なんでこんな右翼がいるんだ」と呆れたように、右から左まで寄せ集まった
政党だった。
例えば元戦犯の岸信介(のちの自民党首相)が最初、社会党から立候補しようとした
くらい右寄りの体質も持っていた。
右派の代表は妥協居士と言われた現実主義者の西尾末広で、これは反ソ派。
一方、最左派はマルクス・レーニン主義を奉ずる社会主義協会の向坂逸郎
(九大教授、議員ではない)で、これは勿論親ソ派。
従って、これほど相容れない水と油の連中がうまくいくはずもなく、
社会党は結成数年で2度も分裂するが、結局また統一される(昭和30年)。
だが主導権を左派が握ったので、西尾はやがて飛び出し、民社党を結成する
(昭和35年)。
西尾離党後に委員長になったのは、もともとは右派だったのに
いつのまにか左派に担がれた浅沼稲次郎。
「ヌマさん」の愛称で人気があったが、まもなく右翼少年に刺されて死亡した。
そのあと、社会党の顔になったのは書記長(委員長代行)の江田三郎。
こちらは、もともとは左派、協会派だったのに段々右派になり、
社会党を現実路線に転換させようとした。
だが協会派、協会から別れた佐々木派(親中派)、そして和田派などの左派連合の
猛反発を食らって、書記長を引きずり降ろされてしまう(昭和37年)。
そして社会党は協会派の主導で悪名高い綱領文書「日本における社会主義への道」を
作り、日本の高度経済成長に逆行して社会主義革命を目指す(昭和41年)。
この結果、社会党は長期転落の坂道を転げ落ちることになる。
この間、江田は何度も反協会の闘争を起こすが袋叩きにされ、結局離党、
社市連を作るが、直後に急死してしまう(昭和52年)。
田中角栄が「社会党が江田を委員長に立てて来たら、自民党は負ける」
とまで畏れていたというのに、その江田を愚かにも社会党は自ら葬って
しまったのである。
一方、党内に残った旧江田派、左派連合を離脱した佐々木派、新しい流れの会
(右派)は反協会3派連合を作って激しく争ったが、
やがて新しい流れの会の田英夫らは社会党に愛想を尽かして離党し、
社市連(江田亡き後は息子の五月が代表)と合流して社民連を結成した。
(ちなみに菅直人は、江田三郎に私淑して社市連に参加したのであって、
社会党とは直接関係ない)
さて、社会党は、左派に担がれた傀儡の成田、飛鳥田、石橋らの陰気な面々が
次々委員長に就任したが、彼らとて、さすがにいつまでも「社会主義への道」
などと言っていては国民に見放されるのは承知していたので、
何とか現実と折り合いをつけようと試みる。
だが、所詮それは付け焼刃、
浮世離れした不毛な党内論争をやってる間にますます国民に見放されてしまい、
そしてとうとう総選挙で大惨敗を喫するのである(昭和61年)。
この時、党再建の切り札の切り札として登場したのが、
土井たか子だったのだ。
というわけで、話は土井に戻る。
次回に続く・・・かどうかわからない。