朝日新聞研究の書は既に数々あるが、私なり考えてみたい。
そもそも――と改まる事でもないが、日本の近代ジャーナリズムの成り立ち
を振り返ってみると、大雑把に言って、旧幕藩系士族がルサンチマンで
始めたところが大きい。
単純化して言えば、明治維新の「負け組」である彼らは、必然的に反権力
たらざるを得なかったのだ。
つまり、何のことはない、ただ言論に依拠して、現実の憂さを晴らすしか
なかったのに過ぎないのである。
しかし、それ自体は別によい。
始末に負えないのは、そのようなルサンチマンの構造だけがいまだに生き残って
ジャーナリズムの本質をなしている事だ。
言うまでもなく、今やジャーナリズムは「羽織りゴロ」などと蔑まれていた
明治の壮士ではない。
大新聞の社員は高給取りであり、多くは、財務官僚になるかマスコミに入るかという
選択肢で偶々新聞記者になったに過ぎない。
つまり、彼等自身が紛れもなくエリートであり権力の一員である。
にもかかわらず、もはや実態のない負け組の「ルサンチマンの構造」だけは
生き残っているために、さも「反権力」であり「庶民の味方」であるかのような
欺瞞の言説として通用してしまっている事が問題なのである。
実態は「大衆を擬態したエリート」であり、その点では「前衛面」した代々木の
共産党官僚と同様だ。
つまり内心では大衆を馬鹿にしきっており、自分たちの口先一つで、愚かな国民など
どうにでも扇動できると思い上がっている。
これは右でも左でも、つまり讀賣でも朝日でも同類である。
ただ国民・国家にとってより有害なのは「反日」を社是に掲げる?朝日新聞である事
は、言うまでもない。
続く(?)