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■ 猫はただ そこにいるだけ でもひとは そこにまぼろしの意味を求め
ボクとママの世界を生きている練も、アタシとママの世界を生きている茶々も、 彼らの中での閉じた世界を生きているのだろうな、と思います。
一日の大半を寝てすごし、時折ご飯を食べ、時折、ママとの世界を思い出して、じゃれてくる、そんな感じ。 とても猫らしい、我侭な彼ら。
どちらかと言うと人間的だったニャンがいなくなって、我が家はほんとうに「猫とひと」の家になったのだなと思います。 ニャンがいたころは、猫とひととひともどきの猫の家、というと、まるでニャンが化け猫のようですが、でもそれぐらい生活の中にしっくりとはまっていました。
ニャンはよくリュウの膝の上に乗っていましたが、リュウはそれをあまり意識していなかったようです。 一人暮らしを始めてからひさしぶりに帰宅すると、当然のようにニャンはご飯を食べるリュウの膝上に乗るのですが、リュウは気づかずに「うぉ、おまえいつのまに」とか言うので、よく笑ったものでした。 だって、ニャンが膝に乗ると、普通に背中をぽんぽんしているのを、私は横で見ていましたから。
そんなふうに、無意識のうちに生き物を扱うリュウを、少しうらやましいとも思っていました。
だから、ニャンがいなくなって、猫たる中の猫である練と茶々は、われこそが猫であるぞと主張して、でもそこは猫なので、半分はぐだぐだと寝ている、そんなふうに思えます。
どちらも病気を抱えていて投薬が欠かせないのが切ないです。
まあ一病息災という感じでいければいいかな、と
2017年12月09日(土)
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