2001年07月16日(月) |
雨雲とTVのノイズと死とOmar Kayaam |
灰色と黒の雨雲を背景に、ざあざあと雨が降る。
霧が濃くてベランダから芦屋が見えない。
僕は・・・どうしたというのだろう、ぽうっとそれを 眺めている。
雨の音はもはや放映時間の終わったTVのノイズのようだ。
僕はその中で考えることができない。
小さな考えごとや、集中をまとめて遮断している。
車が忙しそうにバス道を走って行く音がする。
どこにも辿り着けないことを知りながら、
あるいはそれを薄々と知りつつもなお自分をだましだまし、
今日も昨日と同じ道を歩もうとする人がいる。
今日も昨日と同じ道を歩んでいる人がいる。
自転車やバイクに乗った記憶は人を捕らえて離さないようだ。
いったん止まると倒れてしまいそうに感じて走り続ける人間達。
たとえ行き先がどこであろうと、倒れてしまうよりはずっといい。
そんな思いが人々の頭を支配している。
そうして人は走り続ける、そしてその人生のゴールでは 死がにこやかに両腕を広げて待っている。 どんな人生を送ろうと、健康に暮らそうと不健康に暮らそうと、 成功者にも失敗者にも死は平等に訪れる。
かつてインドの賢者OSHOは言った、 「死は偉大な共産主義者だ、全ての人に平等に訪れる」
その死は人が一生の間、見ないでいようとしたもの、避けたかったもの。 そして避け得ないもの。
「患者の命を救う」とか言う医者がいれば、詐欺罪で訴えられていい。 彼等に言えるのは、患者の寿命がほんの少し長くなることを、 助けられる(かもしれない)ということだけなのだから。
今では老人達でさえ、死を非常におそれている。
子供が死をおそれても、それは自然なことだろう。 何もしない内に去るのは嫌だろう。
青年が死をおそれるのも自然だろう。 今日まで育ててきたものが実を結ぶ前に去らねばならないのだから。
しかし、老人は時の短さと生の蜃気楼のようなはかなさ、 繰り返しから生じる倦怠、それらを全て理解しているべきだ。 なぜなら本当は体験により知っていることに蓋をするよりは、 体験に学んだ方が賢明なのだから。
-El mundo es un grano de polvo en espacio, La ciencia de hombres son palabras-
Omar Kayaam
-この世界は空虚の中の塵芥の山、 人間の知識は言葉に過ぎない-
オマール カイヤーム
そんな言葉が思いだされた月曜日の朝でした
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