武ニュースDiary
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2003年05月29日(木) |
金城武とその父 (1) |
「天使の涙」の話になったので、ウォン・カーウァイとの仕事のことを 少し続けようかと思ったのですが、1つ、ご紹介したいものが出てきて、 どうしても先にやりたくなって……。話が飛びますが、ご容赦を。
心路基金会のCMに初めて出演したときのこと、 お父さんと一緒にインタビューを受けているようです。 新聞の家庭欄(!)に載った記事で、長めなので、2回に分けます。
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金城武が台北アメリカンスクールに通っていたときのこと、 上級生や友達が髪の毛を染めているのを見て、興味をそそられ、 自分も真似して金髪にしたことがある。 家に帰ると、父親が色の変わった彼の頭を見て、かんかんに怒った。 「これは不良のすることだ。なんで同じことをするんだ!」 少年・武は内心不満でいっぱいだった。 悪いことなんかしていない、髪の色が変わっただけじゃないか、 なんでお父さんはわからないんだ!
「子どものころ、ぼくはとても聞き分けのいい子だったんですけど、 ただ、いつも友達と外で遊びまわってて。 両親が心配してるのはわかっていましたけど、 そのころは、本当に友達と遊びたかっただけなんです。 男の子ってそういうもんじゃないですか。 でも、お父さんもお母さんも機嫌が悪かったですね」 息子が成長途中に感じた小さなうらみごとを話すのを聞きながら、 金城節も微笑を禁じえない。
金城節は日本人で、今回初めて息子と一緒に「父子関係」のエピソードを公開した。 「私はいつも彼に、これはどう考えるべきか、あれはどう処理すべきか、 話して聞かせます。彼が理解したかどうかはわかりません。 父と子は、ある時がくれば、友人として互いに対せるようになるものです」 武の父は北京語で自分の考えを説明しようとする。
金城武の、父親に対する印象は、厳格な父だ。 子どものころは、父親はいつも外国にいて不在だった。 家にいるとき、もしも彼を怒らしたりしたら、大変だった。 体罰を加えることはなかったけれど、延々と叱責と説教を食らうことになった。
「だから、ぼくたちはお父さんが帰国すると聞くやいなや、 部屋に飛び込んで、机を整頓し、きれいに掃除しましたよ。 お母さんはお化粧をして、ぼくたちには新しい服を着せ、 一緒に飛行場に迎えに行きました。 お父さんが家にいるときは、ぼくたちはすごく素直できちんとして、 机で勉強しているふりをしていました」 父親の肩にもたれて、金城武は子ども時代の思い出を笑いながら話す。
金城武の母親は、台湾生まれの台湾人だ。 父母の国籍が異なることは、子どもの教育に影響があっただろうか? 「多かれ少なかれあるものですよ。 ですから、子どものことで言い争うことも時にはありました。 例えば私は子どもの責任感というものを重視します。 武が子どものとき、私が会議中に、突然家から電話がかかってきたことがあります。 武が朝スクールバスに乗って出て行ったのに、30分たってもまだ学校に着かない、 途中で降りてしまったんだと言うんです。 母親は、武がこのままいなくなってしまうのではないかとひどく心配していました。 私は言いました。かまわない、いなくなるならいなくなるだけだ。 男の子は自分で自分の責任は取れると信じるんだ。小さなことですぐ心配するなと」
結局、こういうことだった。武はスクールバスで学校の生徒と喧嘩をし、 頭に来て、さっさとバスを降りてしまったのである。 大人達は心配したが、午後になって、武はかなりの長い距離を歩き通し、 1人で家に戻ったのだった。
BBS
--------------------------------------------------- 金城武とその父 (2) - (続きです)
「子どものころから、ぼくは両親とあまり話したことがありませんでした。 嬉しいとか悲しいとか、すべて心の中にしまいこんでいたし、 痛いとか辛いとか、他の人に話すこともなかったんです。 今でも、他人に心の内を話す習慣はありません。 相手と長いこと話して、気持ちが通じてからでないと、話さないですね」 そのため、少年時代の金城武は、父母に「自分は何国人なのか」という 疑問をぶつけたこともほとんどなかった。
「子どものとき、人はぼくを見て、台湾人とは違うとわかるんですよね。 で、お父さんは何人? と聞いてくる。ぼくが日本人だと答えると、 じゃあ、君は日本人だねと言うんです。 でも、ぼくは台湾に暮らしていて、日本のことは全然知らない。 だから自分が一体何人かは、あまり考えないことにしました」
18歳のとき、彼は初めて日本を訪れた。 飛行機を降り、空港の「お帰りなさい」という看板を目にしてひどく戸惑った。 「ぼくはずっとその看板を見ていました。よくわからなかった。 台湾がぼくの家だ。なぜこの見知らぬ土地が、 ぼくを<お帰りなさい>と迎えるのだろう?」
成長するにつれて、金城武と父親は少しずつ距離を縮め、意見を交わし、 「友達父子(おやこ)」として心を通わせるようになった。 武が父親に、芸能界の仕事につきたいと話したとき、父親は初めは賛成しなかった。 息子を心配したからだ。
「彼は今はもう20歳を過ぎているけれど、 それでも私にはまだ子どもに思えて、とても心配です。 芸能界については、あまり良くない話をたくさん聞いていました。 それに、行き詰まったとき、何の保障もない。 それまでの努力は無駄になってしまうんです。ですから、心配しました。 しかし、私は思いました。彼を信じよう。 今は、彼がこんなに努力しているのを目にしていますから、もう反対していません」
今年の父の日、武は父親にゴルフクラブをプレゼントした。 初めての父の日のプレゼントだった。 父親が嬉しそうに笑ったのを見て、武は満足と、ある成就感も感じていた。 「ぼくはお父さんに知ってもらいたかったんです。 ぼくがもう大人になって、ものを買ってあげられるようになったんだって」
男前に成長した息子を眺めながら、金城節はこう言う。 小さい頃、武が間違ったことをして叱るとき、「視線は下を向いていた」と、 彼はてのひらを下に向けて、膝頭の辺りに手をやった。 「それから、このぐらいになって」と、手は肩の高さに上がった。 「目の高さが私と同じになったとき、私達は友達になったんです」 このとき、てのひらは眉の高さまで上げられていた。 「今、私が彼と話をするときは、こう言わなきゃならないんですよ ……すわりなさい、すわりなさい!とね」
成長した金城武は父母の心が前よりもよくわかる。 「両親がぼくを気にかけてくれているのはわかっています。 ときどき、やっぱりぼくの考えを本当にはわかってくれてないと思うこともあります。 でも、ぼくはこう言いたい。 心配しないでください、ぼくはもう大人ですから。 今は遊びまわったりしないし、悪いこともしない。一生懸命勉強しています。 これがぼくの選んだ道で、努力しながら歩いている。 失敗したって、別の道を選べます。 あなた方に、この子を生んだことで失望はさせない、 将来、必ず誇りに思えるようにしますからって」
親は、しかし子どもが健康でいさえすれば嬉しいのだ。 「彼の生活は昼夜逆転しており、日が出てようやく帰ってきて、 午後3時か4時ごろまた出かけていくという状態です。 彼が自分の身体を大事にして、それから自分の好きなことをしてくれさえすれば、 他に何も言うことはありません」
自分より頭半分ほども高くなった息子と並んだ父は、 息子と同じ色の普段着を着ている。 父が初めて息子と一緒にカメラの前に立ったわけは、 心路基金会のための公益CMのゆえだ。 心の中を語り合う父と子は、ますます友達同士のように見えた。 (民生報 1995.9.9)
BBS
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