(仮)耽奇館主人の日記
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2006年01月28日(土) |
映画を撮る静機のこと。 |
昨夜は動機(モチーフ)について書いたけれど、今夜は静機(キエチーフ)について。 海を走る船を動機のシンボルとするなら、静機のシンボルは海である。 動機はそのまま、表現になるから分かりやすいのだが、表現に深みを与える言葉の意味合い、響き、絵の具の色合い、濃度、照明のコントラストからの光と影の濃度・・・からなるそれらは、動機だけでは操れない。 知識、技術以上に、人生経験なのだ。 従って、当然、子供より老人の方が、何かについて語るボキャブラリーが多いわけだ。 今回、市川崑監督が三十年ぶりに「犬神家の一族」をリメークする真意もそこにあるのかもしれない。 私は三十代とまだ若輩者だが、誰よりも経験を積んでいるものがある。 それは、うねりだ。 心のうねり。 今度、今やってる作品が終わったら、山の老人と、その孫娘、聴覚障害者の少女が山に憑依されて、エネルギッシュで生命力溢れる「自殺」を遂げる映画作品を製作するのだが、この物語は原作も担当しているだけに、より燃え上がるようなモチーフ熱に炙られている。 しかし、オレ自身のダークサイドを食らえ!という気持ちで撮るわけではない。 そんなオレの、オレの、なんていう暑苦しい映画なんて、私自身観たくない。 映画を撮る価値というのは、あくまでも観客に対するエンターテイメントであり、同時に問題提起でなければならない。 それゆえに、この作品のキエチーフは、私がずっと経験してきた、心のうねりの中に漂わせたわけだ。 山に憑依されて自殺をはかると書けば、死霊か怨念の虜になったと読者は連想するであろう。 しかし、そうではないのだ。 山にあって、山よりもさらに暗く盛り上がる、「隆起する山」を心の中に持って、その膨張に引っ張られて、破滅するのである。 三島由紀夫で言えば、その著作「太陽と鉄」で述べている「暗い太陽」であり、柳田國男の著作「山の人生」で言えば、貧困に苦しむ樵が子供たちを斧で打ち殺した際、見た夕日の光である。 そういう人間の謎を背景に置いて、私は老人と孫娘の生命の饗宴を撮りたいのだ。 明日、出演をお願いするつもりで、聴覚障害の少女と会うのだが、少なくとも、手話がメインのような忍足亜希子さんのような女優にはしたくないので、うまく私の想いを説明したい。 破壊と狂気と地獄が私のモチーフならば、その中で明確になる人間性こそが私のキエチーフなのだ。 泥濘から天上へと駆け上がるために、私は映画を撮る。 今日はここまで。
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