(仮)耽奇館主人の日記
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2006年01月27日(金) |
映画を撮る動機のこと。 |
絵を描く時も、小説を書く時も、そして映画を撮る時も、唯一無比の動機となるのが、衝動である。 人間を殺人や戦争に駆り立てる、血なまぐさい衝動と全く同じ種類のものだ。 銃や剣の代わりに、絵筆やペン、カメラを手にするのだ。 例え、平和なものをテーマにしようとも、その行為はアンドレイ・タルコフスキーがそうであったように、たったワンシーンの、静かな風景のためなら、世界が滅んでも構わないというファナティシズムに支配されるのである。 私が初めて、そういう衝動に駆られたのは、映画仲間たちと宮崎勤事件について話し合っていた時だった。 当時は、その衝撃的な全容に、メディア全体が狂想曲を奏でていた。 興奮したコメンテーターが、「おまえは人間じゃない!」と叫んでいたことについて、仲間の一人が宮崎が人間じゃないとすれば一体何者なのかを追求するために、映画を撮ろうと言い出した。 「『誘拐報道』みたいな犯罪映画にするのかい?」と私。 「そうさ、こいつはテーマが美味しいぜ。ただ、『復讐するは我にあり』よりもエキセントリックな演技が必要になるのがミソだな」 それで、私はコメンテーター以上に興奮したそいつに、仲間たちとともに、ストーリーボード担当としてついていったのだが、私なりに宮崎勤を追えば追うほど、ひとつのシーンだけが大きく膨らんできた。 まず、音楽は執拗なまでに・・・ テレビアニメ「赤毛のアン」のエンディング・テーマ、「さめない夢」が流れてきた。
はしっても はしっても おわらない 花の波 みずうみは遠く もえるくもは もっと遠く 花の中で 一日は終わる さめない 夢みたいに さめない 夢みたいに
・・・・・・
何かが降りてきて、宮崎事件を扱った映画のタイトルは、是非「醒めない夢」にしようと提案した。 理由は説明しなかったが、監督の言いだしっぺは、快諾してくれた。 そして・・・ 私はみんなに、自分が思い描いている、こだわりのワンシーンを説明した。
真っ暗な中に、スポットライトが当たるようにして、ゴミためが浮かび上がる。 ゴミための真ん中には、ダンボール。 そこへ、宮崎役の主人公がゆっくりと近づいていく。 ダンボールからの視点で、主人公のミドルショットのまま、風景が三重に回転していく。 闇がうっすらと晴れていって、コバルトブルーの暗い青空があらわれる。 そこで、主人公の視点から、ダンボールのふたがゆっくり開いていって、中から幼女が手を嬉しそうに組み合わせて、ゆっくりと立ち上がる。 満面の笑み。 そこから、身体を上下に揺らして歌い始める。 マザーグースの、「What are little boys made of?」だ。
What are little boys made of,made of? What are little boys made of? Frogs and snails and puppy dogs`tails, And such are little boys made of. Frogs and snails and puppy dogs`tails, And such are little boys made of.
What are little girls made of,made of? What are little girls made of? Sugar and spice and all things nice, And such are little girls made of. Sugar and spice and all things nice, And such are little girls made of.
男の子は何で作られてるの、作られてるの? 男の子は何で作られてるの? かえるとかたつむりと子犬の尻尾と そういうもので男の子は作られてる かえるとかたつむりと子犬の尻尾と そういうもので男の子は作られてる
女の子は何で作られてるの、作られてるの? 女の子は何で作られてるの? お砂糖と香味料とすてきなものすべてで そういうもので女の子は作られてる お砂糖と香味料とすてきなものすべてで そういうもので女の子は作られてる
・・・説明を終えた後、監督をはじめ、仲間たちは、宮崎がそんなステキなイメージを抱くはずがないと、私のアイディアを退けた。もっとドロドロで行こうぜ、おめえはそういうの得意だろ? だが、当時の私は、このシーンに固執するあまり、映画仲間たちと決別してしまった。 確かに、私はドロドロが得意である。十八番だ。 だからこそ、ストレートにぶつけずに、宮崎がこういうピュアなイメージをも抱いていたと描くことで、かえって人間の恐ろしさ、悲しさを描けると思ったのだ。 かなりの映画通なら、私が固執していたシーンを見て、何に影響されたか容易に想像がつくであろう。 そう、デビッド・リンチ監督の「イレイザーヘッド」だ。
・・・・・・
犯人が何をしたかを描く映画なんて、もうすでに報道でみんな知ってるんだから、誰も観たがらないだろう。 重要なのは、犯人の心理風景を解き明かすことで、人間のダークサイドに対する知識と防御手段を身につけることではないだろうか。 そのためならば、私は宮崎事件の映画を撮る価値があると思うのだ。 あれから十七年。 仲間たちは結局、撮れなかった模様だが、はっきりしたこだわりのシーンを持たずに、美味しいテーマばかりを追い求めているだけでは、撮れないに決まっている。 私は脚本などの骨組みを重要視するタイプだが、それ以上に、このシーンだけは何としても撮りたいという気持ちを最重要視する。 こだわりなくしては、いい作品が作れないからだ。 ファーストフードを作る作家もいることはいるが、私はちゃんとした料理しか食べないし、またそれしか作らないことにしている。 今日はここまで。
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