(仮)耽奇館主人の日記
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2006年01月29日(日) |
愛について語らない映画なんてない。 |
今日お会いした、聴覚障害の少女、まだ芸名がない子なので仮に「メグちゃん」としておこう、メグちゃんは、私の映画のストーリーを一読して、自分が演ずるに当たって、多少勇気がいるところがあると感じたようだが、出演依頼に対してOKの返事をしてくれた。 私の、聴覚障害の女優、忍足亜希子さんのような感じにしたくないというのも、それなりに分かってもらえた。 これは、同席していた、やはり聴覚障害ではあるが、プロの映画人を目指して勉強しているコトちゃんの存在が大きい。 最初は、スタッフのお手伝いとして誘った女の子なのだが、はっきり言って、お手伝いどころではなく、今すぐにでも現場でブイブイいわせられる実力の持ち主だった。 その実力のほどを、彼女が持参したDVDプレーヤーで、彼女自身の短編映画で十分思い知った。 昔の学生映画にありがちの、「暑苦しさ」が全くなく、映画として完璧なまでにモチーフも、キエチーフも見事に表現されていた。 ほんとうに嫉妬をおぼえるほどに。 で、ひとつの作品に、コトちゃんが主演を果たしているのだが、忍足さんみたいに手話を全く使っておらず、表情、身振り、目の力だけで演じていた。 これが、そもそも私が求めていることだったので、メグちゃんには大いに参考になったようだ。 私はほんとうに、世間で言う、聴覚障害=手話というカテゴリーを嫌悪していて、そんな甘々なオブラートに包まず、苛烈な現実にあって、普通の感覚にあって、障害者だからというのではなく、その人個人の人間性のみを抽出するというやり方を目指している。 だからこそ、柴田剛監督の「おそいひと」に涙したのだし、アレハンドロ・ホドロフスキー監督、デビッド・リンチ監督、ヴェルナー・ヘルツォーク監督のセンスを敬愛するのである。 私は思うのだが、コトちゃんの映画作品が人間愛、友愛を描いていたように、私のようなホラー、アングラ、カルト的感覚も、とどのつまり、愛について語らずにはいられないと確信している。 第一、愛について語らない映画なんて存在するだろうか? やり方が異なるだけなのだ。 そんなわけで、私が単に、興味本位だけでエロティシズムや、破壊と狂気、地獄を描くわけではないことを分かってもらえて、お二人の協力依頼へのOKを得られて、ほんとうに幸福感に包まれた、暖かいお昼を過ごせた。 最後に、メグちゃんが、私が学んだ国府台の聾学校の遠い後輩だということを知って、ちょっとびっくりするとともに、ある種の因縁を感じてしまった。 私とメグちゃんが早速交わした共通の話題は・・・ 国府台の幽霊であった。 それを傍で聞いていたコトちゃんの表情がおかしかったのだが、国府台の縁には常に幽霊がついてまわるということ自体、何か微笑ましさを感じる。
・・・・・・
帰宅して食事をしながら、エドワード・ゴーリーのインタビュー集を読んでいたら、今日の私にぴったりの言葉があったので、以下に引用する。
「・・・それに、本当のところ、わたしが人間より興味を抱いているのは日常の生活です。どうもわたしという人間は、日常生活とは殺人に満ち満ちたものだと考えているみたいに思われているらしいですね。でも、わたしにしてみれば、毎日がほかの日とぜんぜん違うんですよ。たとえ何も起こらなかった日でもね。日本文学が魅力的なのも、まさにその点なんです。個々の人間にとって生きることとは何かという問題について、これほど強く認識している文学は他に見当たらない。『源氏物語』は、西洋文学でほとんど扱われることのない、存在についての感情の機微を表現しているんです」
今日はここまで。
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