(仮)耽奇館主人の日記
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2006年01月25日(水) Folie paisible.

柴田剛さんの映画「おそいひと」をモニターで観ながら、水曜日をゆっくり絞め殺した。
「おそいひと」はもう何度繰り返して観たことだろう。
何度観ても、心がざわざわしてきて、目と鼻の奥がじりじりしてくる。
介護者の世話になって日々を暮らしている、重度障害者の住田さんが殺人を犯すに至る物語なのだが、そのショッキングな内容にも関わらず、安らかな詩的感覚が住田さんの表情を通して、画面全体に漂っていること自体が、剛さんの視点の、「優しさ」を感じさせてくれる。
剛さんから聞いたエピソードに、「おそいひと」が完成した時、周囲の一人によく三年間も住田さんとつきあえたなと言われたというのがあるが、そんなことを言う方が、世間一般の見方の浅はかさを自分も持っていると告白しているようなものだ。
単なるものめずらしさ、興味本位だけで、こういう映画が撮れるわけがないのだ。
剛さんのお母さんは、障害者の介護の仕事をされていて、この映画をごらんになったという。
感想は・・・
やはり、「過激」そのものだったそうだ。
確かに、重度障害者が殺人を犯すなんて、「過激」もいいところだろう。
しかし。
剛さんは知っていたのだ、障害者の内なる衝動、殺人にまで至る衝動の苛烈さを。
私自身も知っているどころか、聴覚障害者という立場上、何度も殺人を夢想したくらいである。
好奇の目で見られるのはもう慣れた。
自分で補聴器をつけないと聞こえないと断るのも慣れた。
ところが、私が見た目で補聴器をつけているからって、もう全部分かってるというような顔をして、得意げな顔で手話をしてくる人には、いまだに慣れない。
住田さんが抱えるものには遠く及ばないが、「おそいひと」で繰り返し表現されている、そういう種類の「違和感」に、心が暗く沸騰するのだ。
バカにされたという悔しさではない。
そんな感情はすでに達観した。
ただ、何か・・・邪魔されているような気分になるのだ。
自分が自分らしく生きるのを。

余計なお世話。

そう、まったくもって余計なお世話なのである。住田さんも、私やせむしの社長、ヘレンたちと同じように、介護されたり、支援されたりするよりは、片輪として疎外される方がよっぽど「まし」だと思うに違いない。いや、絶対そう思っているはずなのだ。
せむしの社長の言葉を借りれば、優しい言葉よりは、石をぶつけられる方が安らかな気分になれるというやつだ。
この言葉ほど、「違和感」に対する私たちの気持ちを代弁したものはないだろう。
いずれ、私は剛さんの紹介で、住田さんに出会う。
その時、私が住田さんに対して、取る態度は、「Folie paisible」である。
「おそいひと」の音楽で使われている、ワールドズ・エンド・ガールフレンドの音楽性にも通じる表現なのだが、フランス語で「安らかな狂気」という意味だ。
私は「おそいひと」を観て、常に思い出す。
もし、私が小学校時代に、聾学校から普通の学校へ移らずに、障害者のみで作り上げる社会の、コロニーへ閉じ込められていたとしたら、どうなっていただろうかと。
剛さんとも笑いあいながら、告白したのだが、コロニーを破壊するために虐殺を展開していただろう。
その時の私を想像すると。
不思議と、怒りも悲しみも、高揚感もない、安らかな気持ちなのだ。
ラストで警察に逮捕されて、手錠をかけられる住田さんの表情がそうであるように。

・・・・・・

私の気持ちを正直、吐露すると、手話というものにはものすごく不快を覚える。わざわざそんなことをしなくても、聴覚障害者と健常者の間には、てっとりばやいコミュニケーション方法があるのだ。
なぜ、それを使わない?
分かっている、それが社会性を脅かすものだからだ。
絶叫と悲鳴・・・
それこそが、障害者を問わず、原始的なコミュニケーション方法なのだが、言語社会においては、混乱と恐怖を招くだけだろう。
しかし、私は言語社会においても、絶叫と悲鳴をうまく扱える方法を知っている。
それがどんな方法かは、これからの私の映画という手段での「虐殺」を見れば分かるだろう。
今日はここまで。




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