(仮)耽奇館主人の日記
DiaryINDEX|past|will
2005年12月25日(日) |
クリスマスにデ・ラ・メアを。 |
イギリスにおけるクリスマスの伝統といえば、当日記では度々紹介しているように、怪談を話し合って聖夜を過ごすという習わしがある。 昔、文通をしていたロンドンの日本人の女の子によると、ミスティーナイトといって、彼女は日本代表として「雪女」の話を語ったそうである。怖いというより、ファンタスティックな話として好評を得たそうだが。 で、私も、子供たちにプレゼントを配り終えた後、ささやかな自由時間の間、屋根裏の書斎から怪談の本を下ろして読みふけることにした。 もう、目新しい怪談は、私の前にはないのだが、いつまでも新鮮さを失わない極上の怪談は存在する。それを気分次第で何回も読み返しては、悦に入るわけだ。 今回は、ウォルター・デ・ラ・メア。英国の幻想小説に詳しい人なら、その名は当然耳にしているだろう。 デ・ラ・メアの語り口の特色は何といっても、「朦朧法」にある。即ち、はっきりとは言わずに、わざとぼかして、読者の想像力を膨らまして恐怖をあおるというやつだ。 「失踪」という短編があるが、これは殺人という言葉が一度も出てこない犯罪小説で、なかなか薄気味悪い読後感を与えてくれた。 「謎」も、子供たちが次々と消えていくのを淡々と語る内容で、そのメルヘン的な空気とは裏腹に、痙攣的な寒気を感じる恐るべき名編である。 そして、長編「リターン(我が国では邦題だが、あえて原題)」。 これは墓の上で居眠りをした主人公が、帰宅すると、自分の顔が見たこともない男の顔になっているという出だしで、私が知る限り、最高の幽霊物語である。 覚えている限りで申し訳ないが、「幽霊は人の心の中に素早く入り込んで、鉛のように沈み込んでしまう」というくだりが、妖しく、美しい表現だったので、私はデ・ラ・メアを深く敬愛している次第である。 今回、読み返したのは、「シートンのおばさん」。 これは初めて読んだのが小学三年生だから、一体どれくらい読み返したことだろう。 しかも、歳を重ねるごとに、読後感がそれぞれ違ってくる。 どんな内容かというと、それほど親しくもない学友に誘われて、彼のおばさんと二人暮しの家で過ごすことになった主人公が、悪魔と同盟を組んでると称されるおばさんの影に怯えるという話だ。 しかし。 話はそれほど単純ではない。おばさんがほんとうに、悪魔と組んでいたのかははっきりとしていないし、学友の淋しさからくる作り話かもしれない書き方なので、私には怪談の範疇を超えた、純文学として読めた。 「シートンのおばさん」は、淋しさからくる自分自身の影に怯える物語なのだ。 あらゆる小説の中で、それぞれ月の光の美しさを表現している名作は数え切れないが、私にとっては、「シートンのおばさん」ほど月が美しく読めた作品はない。 私なりに・・・少年時代からの愉しみを反芻出来て、それなりにいいクリスマスであった。 今日はここまで。
「アーサーがいないとすると、さぞお寂しいことでしょうね、ミス・シートン?」 「わたしは今までに一度も寂しかったことはありません」とおばさんはにがにがしげにいった。 「生身のものを友達だとは思っておりませんよ。ねえ、スミザーズさん、あなたもわたしぐらいの歳になったら(いや、とんでもない)、人生も、今お考えになっているらしいものとはひどくちがったものだということがおわかりになるでしょうよ。そうなったら、もう友達などお求めになりませんよ、きっとです。そういう生活をあなたは押しつけられますのよ」
|