(仮)耽奇館主人の日記
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2005年12月24日(土) イスールのこと。

クリスマスイブの予定が流れたので、いつものように、お寺に寄って、火鉢を囲いながらみかんを食べつつ、本を読んだ。
ちょっと泣きたい気分というか、それを超越した、刺激を味わいたかったので、レオポルド・ルゴーネスの「塩の像」(国書刊行会・バベルの図書館)に収録されている、「イスール」を丁寧に読み返した。
イスールについて語る前に、ルゴーネスについて簡単に説明しよう。
一言、ボルヘスが師と仰ぐ知られざる才能豊かな文人で、ボルヘスが世に紹介するまでは文字通り、南米の僻地に封印されていた存在だった。
私が初めてルゴーネスと出会ったのは、中学の時に読んだ、「南米怪談集」というオムニバスで、「火の雨」という短編だった。
世界の終末を描いていながら、キリコの絵画のような静けさと寂しさをかもし出していた興味深い内容だったので、それ以来ずっとコレクションの対象にしていた。
南米には、「火山を運ぶ男」(月刊ペン社)のジュール・シュペルヴィエルをはじめ、まだまだ、想像力豊かな作家たちがひしめいているのである。
で、私が特に偏愛している、ルゴーネスの「イスール」。
これは、猿が喋らないのは、かつて喋れたはずの猿がなんらかの理由で喋れなくなったという仮説に基づいて、サーカスから買い取った、イスールという猿に喋り方を根気よく教えるという物語である。
まるで、スウィフトの「ガリバー旅行記」のラピュタに常駐しているマッドサイエンティストの一人のような振る舞いなのだが、何か凄まじい、狂気じみた人間性を感じさせてくれて、物語のクライマックスに訪れる、衝撃的な結末に私はいつも魂を射抜かれて、涙を流してしまう。
ルゴーネスはもちろん、猿が本当に喋れるようになると思ってあの物語を書いたわけではない。
主人公を通して、人間自体の熱意、根気、愛情のファナティシズムを描くことで、「報われた」と思える瞬間を実際に「思い浮かべられる」人間の悲しさ、おかしさ、空しさを描いたのだと、私は思っている。
ラストで、本当に、猿が喋るのだが、私が思わず涙したのは、その喋った内容であった。
どんな内容であったかは、これから興味を持って読む読者のために、明らかにはしない。
現在のチンパンジーは、志村けんのテレビを見ても分かるように、訓練次第では色々な芸を教え込むことが出来るようだが、イスールのように「自我」を高める個体は果たして登場しうるだろうか?
手話で意思を伝えるゴリラ、チンパンジーの話は耳にするが、実際に思考を伝えることの出来るものは?
そうやって、熱っぽく猿と向かい合ってみて、我々はいつ悟るのだろう、我々人間は、猿にまで自己を投影しないと、淋しくて仕方のない生き物なのだと。
そして、猿は実際には、所詮、鏡を見るように猿真似しているだけなのだと。
今日はここまで。




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